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面河村誌

三 現川内大味川線

 明治時代から黒森街道への村民の愛着は格別で、この路線の県道開通に対する熱意は察するに余りある。昭和二十年(一九四五)この路線の測量人夫賃の負担に始まって、愛媛県へ陳情することたびたびで、昭和二十二年(一九七四)起工式を終えたとはいっても、県の土木予算はじゅうぶんでなく、特に温泉郡三内村長近藤金四郎と、工事の早期完遂運動を繰り返し、昭和二十年(一九四五)には、陸軍の要請を受けて、村民で義勇隊を組織、太平洋戦争終戦直前まで、黒森峠(面河分)付近の道路改修工事を実施した。陸軍から工費の一部として一万六五八八円、県から二万九〇九七円を出し、隊員への支払その他に充てた。いずれにしても、黒森線の工事推進のための努力であった。
 このようにして、昭和三十一年(一九五六)一二月、待望の県道黒森線(杣川松山線)は開通、黒森峠でその式典を、川之内でその祝賀会を行った。
 しかしながら、県の土木行政は財源難と、この路線の経済的評価は芳しくなく、工事の予算は、こまぎれの状態であり、面河村としては、村民の行政、生活路でもあるので、しばしば財政負担を余儀なくされた。
 例えば昭和二十二年(一九四七)川奥橋の災害復旧工事費に一五万円、昭和二十四年にも測量人夫賃の負担さらに昭和三十年、川奥橋災害復旧に二〇万円、同三十年(村長重見丈太郎)最後の切札として、五〇万円を寄付した。
 このようにして全線の舗装も完了、国道十一号線(明治九年国道認定)と川之内で連絡し、松山方面はもちろん東予、高松方面への近道となった。
 しかしながら一車線・カーブ・急勾配、かつまた冬期は凍結土砂崩れなど、種々悪条件が重なり、大型乗合バスは、伊予鉄バスが、松山から一往復だけ(四月下旬から十一月中旬まで、日・祝日のみ)、乗用車の通行もまれで、大型トラックのすべては、御三戸回りで松山方面へ運行するのが実情である。現在御三戸・関門が二車線に拡張工事中、特に冬期は閑古鳥が鳴く黒森線になりかねない。
 面河ダムの完成につれ、この路線は川内落合久万線となり、直瀬・畑野川・久万町へ(峠御堂隧道、延長六二三メートル、昭和四十八年(一九七三)完通)、大味川線は、渋草・通仙橋に至る。
 面河ダムの観光開発と、笠方・梅ヶ市から堂ヶ森・石鎚山への登山路の開発あれば、この路線も観光ルートとして脚光を浴びる時代がくるかも知れない。
  昭和二年道路方針
  議按第二十九号
   道路方針決定ノ件
  木村道路方針左ノ通リ定ムルモノトス
     左 記
  一 本村ニ於テ幹線道路卜称スルハ左ノ三線トス
  (1) 仕七川村大字東川古味ヨリ本村大字大味川本組上西長谷ヲ経テ面河ニ達スル路線
  (2) 前記路線本村大字大味川字川口分岐点ヨリ渋草笠方ヲ経テ温泉郡三内村大字河ノ内ニ達スル路線
  (3) 本村字笠方友田ヨリ分岐シ杣野前組ヲ経テ川瀬村大字直瀬ニ至ル路線
  二 本村道路速成方針左ノ通リトス
  (1) 府県道久万壬生川線ノ経過地ヲ仕七川村字竹ノ谷ヨリ同村東川古味ヲ経テ杣川村大字大味川本組上西ニ出ズル様変更方ノ貫徹ヲ期スルコト
  (2) 当町川上線ノ県道編入ニ関シ之カ貫徹ヲ期スルコト
  (3) 久万ノ壬生川線中仕七川村東川改修道路終点ヨリ温泉郡三内村河内迄ノ改修ヲ直チニ着手進行セラルル様其筋ニ陳情之カ貫徹ヲ期スルコト
  (4) 道路寄附金約一万円八二十ヶ年継続線号外ノ幹線改修費へ使用スルコト
    但シ前記久万ノ壬生川線ノ改修ニ着手シ全部県ガ負担シ改修 終了ヲ為ス見込相立ツ迄ハ使用スルコトヲ得ズ
   昭和二年十月八日提出
                     杣川村長 菅 広 綱
  議按第三十号
  県道経過地変更方陳情ノ件
  府県道久万壬生川線ノ経過地ヲ仕七川村字竹ノ谷ヨリ同村東川古味ヲ経テ杣川村大字大味川本組上西ニ出ズル様変更方其筋へ陳情セントス
    昭和二年十一月八日提出
                     杣川村長 菅 広 綱

県道杣川松山線黒森峠附近の平面図(制作年不詳)

県道杣川松山線黒森峠附近の平面図(制作年不詳)