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面河村誌

一 現国道三三号

 明治十九年(一八八六)三月、愛媛県関県令(知事)は、四国新道開さく工事を県民に公表し、同年四月七日讃岐国琴平で、愛媛(香川は当時愛媛県)・徳島・高知三県令をはじめ五十余名参列して、盛大な起工式を行った。
 愛媛県分の新道(土佐街道)は、二十七里三十余町(内伊予分一七里一八町)を一四里二七町(一五里)に短縮すること、道幅は平地で四間、山間部で三間から三間半、工事費は二五万六八〇〇円(うち、伊予分一七万八〇〇〇円)で、松山、高知間の新道工事は発足した。
 その後、予算の変更、国庫補助四万五七〇〇円、同一万九〇〇〇円の補助の増額、面河川の大洪水のため、明治二十二年(一八八九)九月落出橋の決壊など、あるいは県内各地の反対運動で、明治二十五年(一八九二)一時工事を中止、同時に三千余円の国庫補助の返納命令、物価騰貴による予算不足など、さまざまな曲折があったが、明治二十五年(一八九二)八月、落出渡舟場の完成で、土佐街道愛媛県分の工事はいちおう完成し、勝間田愛媛県知事、松坂上浮穴郡長など関係者多数が出席して、盛大なる完工式が、三坂峠で挙行された。
 最終工事費二五万六八五〇円、地元寄付人夫二万八一〇〇人役、夫役負担万三七〇〇人、総延長二四里一七町、一里につき五九三九円三銭、なお、当時成年男子一人の労賃は一日一五銭、米価は一升六銭であった。
 昭和二十七年(一九五二)県道土佐街道は、一級国道に認定され、昭和四十二年(一九六七)全線が二車線に拡張、その舗装工事も完成した。
 名実ともに、四国縦断の大幹線道路、物資の輸送・乗合バスの定期運行、高知から面河へ、松山から面河への観光道路、面河・石鎚の観光シーズンには、全国の貸切乗合バス・マイカーの通行も頻繁であり、道路の整備もじゅうぶんで、三十三号の名にふさわしい国道である。