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面河村誌

一 峠 道

 藩政時代における城下町松山、いうまでもなく、そこは松山一五万石の政治が行われ、経済文化の中心、伊予八藩随一の都会であった。
 城下町の松山は、堀之内が中心地である。三之丸乾の角にある「札の辻」は松山藩時代の交通の起点であり道路元標があった。
 ここから、例えば土州の高知までが陸路二二五里一八町三八間であり、讃州高松へ陸路三七里一〇町一五間などと、細かく計られている。
 札の辻から久万町まで、七里五町三五間、下畑野川まで八里八町、七鳥村ヘ一○里八町四〇間、大味川村ヘ一○里一六町五六間、杣野村まで一〇里二五町一間などと記されている。
 当時の村内(杣野村、大味川村)では、杣野村庄屋から割石峠まで二里一五間、川之内庄屋まで二里三一町、大味川庄屋より仙野村庄屋まで一里一四町二〇間、直瀬村庄屋まで二里一一町二〇間、七鳥村庄屋まで二里二町三〇間、東川村庄屋まで二里八町三間、周桑郡明川村庄屋三里三二町などの記録がみられ、それぞれの街道の起点は庄屋であった。
 こうした古文書により、当時村内(杣野村、大味川村)の交通は杣野村庄屋(本村)、大味川村庄屋(本組)を中心と して、相名峠・割石峠・桜木峠・カバケ峠・くるすの峠、面河川を下りて東川庄屋、高台越で土佐椿山、大野池川方面へ、それぞれ脚絆、草桂がけ、縞の着物をはしょって人の往来があった。
 若山(草原)銅山の発掘と製錬に伴い、松山までの輸送には、西明神村に銅輸送中継所が設けられ「直馬」をもって松山まで輸送うんぬんの文書が文久三年(一八六三)記されている。
 これから考えると、このころから物資の交易が盛んになるにつれて「人力」の代わりに「駄馬」が使われ始めたのではあるまいか。
  馬よ歩けよクツ買うてはかそ クツは五文のワラグツを。
 木地師が笠方梅ヶ市に入山した時期は、明らかではないが、木地製品の搬出は専ら割石峠を越えて川之内村問屋(地名)まで運んだ。(問屋はその名のとおり、物々の交易地であった。)
 明治初年(一八六八ごろ)前後、黒森街道が開通、今でいえばハイウェイ、川之内から川上、横河原、そして城下町松山へ通ずる幹線街道となった。
 明治二十五年(一八九二) 八木胤愛、重見盛蔵が温泉郡南吉井村から入村、八木は農民相手に金貸をし、重見は酒の販売からやがて酒造業を始めた。
 八木・重見の活躍はある意味で、杣川村に産業革命をもたらし、ただ食うだけの農民から、木材・農産物にいわゆる商品性を生ぜしめ、村内をはじめ、松山方面への交易が盛んになり、黒森峠越えは、人の往来、行商人(呉服・魚類)はもちろん、馬の背を利用して物資の輸送路として盛況を極めた。実に重要なる経済路であり、ある意味での「シルクロード」であった。
 例えば久万町は昔も今も行政路と経済路はほとんど三坂峠越えである。しかし当地は、杣野村・大味川村庄屋時代から杣川村時代あるいは面河村の初期に至る間、行政路と経済路は全く別のルートである。経済路は藩政庄屋時代は割石峠、明治初年から昭和時代県道(若山久万線)に至るまで黒森街道、杣川村役場が渋草に設置(明治二十二年・一八八九)されても同様である。
 渋草から札ノ峠を経て相ノ峰、カバケ峠から畑野川、或は本組からくるすの峠、竹谷、畑野川、それぞれ久万町へ通ずる行政路であり、上浮穴郡役所(明治十三年(一八八〇)が設置され、大正十五年には(一九二六)廃止)、久万警察署、また、教育は郡視学(上浮穴郡役所内)、郵便は久万郵便局などができた。つまりこの街道は行政路であった。
 杣野村(現前組)は地理的に桜木峠から直瀬村(現上直瀬)と、物資、人の交流盛んにして、笠方木地師の一部は直瀬村を経て入山、そしてまた、天正元年(一五七三)直瀬村に建立された禅宗浄福寺は、杣野村はもちろんのこと、大味川村をも壇家にもち、宗教的な往来もひんぱんであった。
 明治三十五年(一九〇二)川瀬村上直瀬尋常小学校に高等小学校が併置されるや、村立石墨尋常小学校の卒業生は、高等小学校へ、この峠を通って通学。現在の直瀬中学校へももちろん同様である。
 人は歩くもの、軽い荷物は自分の背中で運ぶもの、例えば土佐送りの三椏は、一丸三貫一〇〇匁、人の背中で高台越、それぞれの峠越えの行商人、呉服屋は大きな風呂敷で、これも自分の背中に、にぼし売り、小間物(化粧品)屋は天秤棒で、駄馬の荷物は商品性のある重い物産(木材、酒類ー主として四斗樽)に限られていた。伊予鉄道会社の汽車線路の枕木(スリッパ)は、面河川を県道御三戸まで川を流した。大正初年までのことである。