データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

面河村誌

第三章 海外移住の人々

 昭和五十三年(一九七八)六月十八日、この日が日本人のブラジル移住満七十周年である。
 第一回移民七八一名を乗せた笠戸丸が、ブラジル、サントス港に入港したのが、明治四十一年(一九〇八)六月十八日のことである。戦前ブラジルに渡った移民の数は約一九万人、戦後は約六万人が移住した。
 現在ブラジルには、サンパウロを中心に約七十五万人と推定される日系人が、ドイツ・イタリアその他の国の移住者に伍して、新しいブラジルの国づくりに参加している。
 日本から渡った、一世たちの数は、約二五万人といわれ、残りは、ブラジル生まれの、二世・三世・四世たちである。
 七〇年の歴史は、これを言い換えれば日本人が、全く日本と違う異質の社会・文化の中で、いかにして生活の根を下し、いかにして、適応したかの、なまなましい軌跡である。日本人は、多くの分野で、ブラジル社会に貢献した。特に、農業の領域では、作物の育種改良を行い、菜園芸農法を創出し、生産性の高い農業協同組合の発展に成功している。
 現在日系人が所有する耕地面積は、五八〇万町歩、ブラジル農業の、三五パーセントは、日系人によって行われている。現在、日本の耕地面積は約五〇〇万町歩といわれるから、日本の耕地面積を、上回る農地を、日系移民が所有していることとなる。
 一世のほとんどが農業移民として、ブラジルに渡り、たいへんな苦労を重ねてきたわけであるが、その労苦の中で、子供の教育を特に重視し、現在サンパウロ大学では、日系人の学生が約二〇%、大学教授や代議士、そして、ついに、大臣まで誕生した。
 繰り返していおう。既に、「蒼氓」の時代ははるかな過去となった。 七十年祭を機会に、ブラジルの日系人は、大きくはばたこうとしている。
 昭和九年三月、杣野村大野拓夫一家が当村から初めて、ブラジル、サンパウロに渡航した。爾来、昭和三十六年までの二七年間、一五世帯八七人がブラジルに移住している。
 昭和二十年、日本が米・ソ・中国などの連合国に、無条件降伏し、朝鮮・台湾・樺太の南半を失い、「米」の生産量は、その年六〇〇万トン、明治以来の最低を記録し、七二〇万人の復員軍人、三一〇万人の海外引揚者が、狭い内地にひしめき合い、広大な新天地を海外に求め、昭和二十七年、海外移住が再開されるや、全国から六万二三九三人が、海外に移住している。
 面河村での海外移住者は、ブラジル一五世帯八七人、パラグアイ七世帯四九人、アルゼンチン一世帯四人、合計二三世帯一四〇人である。
    海外移住者の渡航前融資金に対する予算外債務保証について
   当村出身の左記自営開拓移住者が渡航前融資金を、日本海外移住振興株式会社より借入れることについて、金五拾萬圓以内に対して債務を保証するものとする。
       記
   移住者住所氏名
   愛媛県上浮穴郡大字杣野弐拾号六拾壱番地第壱
                          小椋勝清
   右の予算外の保証について、地方自治法第一七九条第一項の規定により、専決処分する。
      昭和三十七年二月二十二日
               面河村長 重見 丈太郎
 南アメリカは、日本からいえば、地球の裏側、遠く故山を離れ、気候風土の異なる、広大な国で、それぞれの生業に励みつつある。