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面河村誌

第二章 太平洋戦争後の人口動態

 戦争による産業の全面的な打撃で、品不足なかでも食糧不足は深刻であった。昭和二十一年には六月までに餓死者が、東京・横浜だけで一三○○人に達し、五月十九日の食糧メーデーには二五万人が集まるほどであった。こんな状態であるから、農山村へ流れ込んだ人口は、なかなか都市へ還流するところまでいかなかった。昭和二十三年には、面河村の人口がついに五〇〇〇人を突破、翌二十四年には、今日の資料でつかみうる最高の人口、五〇二八人を記録している。
 しかし、昭和二十五年、朝鮮戦争の開始により、米軍が発注した「特需」によって、日本経済は戦争景気に巻き込まれ、鉱工業生産指数は、昭和十年を一〇〇として、昭和二十四年の七八から、昭和二十六年には一二二と、一気に戦前の水準を越えた。こうして都市の生産の復活とともに、人口はまた都市へと流れ始めたのである。
 これを、さらに決定的なものにしたのが、経済審議会答申の「国民所得倍増計画」を受けた、池田内閣の高度経済成長政策であった。これは、一ロにいって、生産性の低い第一次産業を切り捨てて、生産性の高い第二次・第三次産業へ資本や労働力を集中させることであった。池田内閣は、昭和三十六年、「農業基本法」を成立させ、それに基づいて、全農家の約三〇%に当たる一・五ヘクタール以上の農家を、大型機械の導入・生産性の高い農業への転換で収入をあげる一方、残りの中農零細農には離農を迫る「農業構造改善事業」をスタートさせた。また、歴代の内閣は、貿易の自由化を併行させたので、アメリカの余剰農産物が流入し、日本農産物の自給率は、昭和三十五年から昭和五十年までの一五年間に、総合で九〇%から七四%に、穀物では八三%から四三%に、飼料は六七%から三一%に激減した。農業だけでは生活できなくなった農民の出稼が急速に増え、専業農家は三四・三%から一二・四%に、第二種兼業農家は三二・〇%から六二・一%にと激動した。
 面河村の場合も、次表のように、高度成長政策が打ちだされた昭和三十五年から減少率が激増している。この政策の一環としての、「道前道後水利事業」が進行し、面河ダムに水没した「面河の穀倉地帯」が大部分離村することになったからではあるが、この事業が完成した昭和三十九年以後も減少率が鈍らないのはダム建設という特殊事情によるものではないことを証明している。
 また、産業別人口構成は図のとおりであるが、昭和五十年の第一次産業に就業する人口が五八・四%とかなり高いようである。しかし、この中には、実質農林業に従事していない人口がかなり含まれているとみるべきで、農林業の破壊は、この数字よりもっと深刻である。
 また、集落別人口の推移は次表のとおりである。昭和二十五年(一九五〇)を一〇〇として指数で示したものであるが、村全体としては、昭和五十四年の今日は三二となり、明和八年の人口は、既に昭和四十五年から五十年の間に割っていることとなる。減少率の最も激しいのは、川ノ子の八、次いで笠方の一五、続いて、大成の一七、相ノ木の一九となる。逆に比較的減少の緩やかなので、渋草の五二、中組の四五、若山の四一である。小集落(小組)で、完全に姿を消したのは、面河ダムの湖底に沈んだところ以外に、笠方の人口がある。
 なお、離村する者の中に、海外移住がかなり含まれていることは注目される。
 面河からの海外移住は、昭和九年(一九三四)から始まり、昭和三十六年まで、ブラジルヘ一五世帯八七人、パラグアイ七世帯四九人、アルゼンチン一世帯四人、計二三世帯一四〇人ある。戦後は昭和二十七年から再開されており、愛媛県の戦後移住者合計が、一七八五人であるところをみると、面河の戦後移住者が一一七人もあるのは、極めて大きい数字であるといえる。
 さて、人口動態をみる場合、出生と死亡とによる自然動態と、転入転出による社会動態があるが、次表の自然動態から、面河村は、美川・柳谷とともに、昭和四十~四十五年の間に自然減となり、以後ずっとこの傾向が続いていることがわかる。
 この原因は、図に示した四つの年齢別人口構成グラフの推移でわかるように、山型からつりがね型、そして細長いつぼ型になり、高齢化社会で、若い生産年齢人口が極度に少なく、したがって、幼年人口も少ないという構造になってきていることにある。転出が転入を上回るという礼会減の現象が激しく進行するうちに、自然減まで招来し、過疎化現象に拍車をかけることになったのである。
 面河村は、人を取られ、水を取られ、土地を取られ、産業と集落の機能は崩壊しかかるという大きなピンチに立たされている今日である。

面河村人口減少率(五年ごと)

面河村人口減少率(五年ごと)


面河村、上浮穴郡産業別人口構成比の推移

面河村、上浮穴郡産業別人口構成比の推移


集落別人口の推移

集落別人口の推移


町村別出生数、死亡数の推移

町村別出生数、死亡数の推移


昭和25年(1950)年齢別人口グラフ(総人口4973人)

昭和25年(1950)年齢別人口グラフ(総人口4973人)


昭和35年(1960)年齢別人口グラフ(総人口4500人)

昭和35年(1960)年齢別人口グラフ(総人口4500人)


昭和45年(1970)年齢別人口グラフ(総人口2332人)

昭和45年(1970)年齢別人口グラフ(総人口2332人)


昭和54年(5月末)(1979)年齢別人口グラフ(総人口1607人)

昭和54年(5月末)(1979)年齢別人口グラフ(総人口1607人)


面河村人口・戸数推移一覧表

面河村人口・戸数推移一覧表