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面河村誌

二 明治期

 明治維新となり、幕藩体制は崩れ、明治四年(一八七一)の廃藩置県で中央集権国家が形成されることになった。中央集権の実をあげるためには最末端の機構整備が必要であり、明治四年(一八七一)末から翌五年初めにかけて、いわゆる郡制改革が行われた。さらに、大区・小区制が、明治五年十月から設定され、上浮穴郡は第一七大区、面河は、杣野が第二小区・大味川が第三小区となった。
 このころの小区ごとの解説をした「地理図誌稿」には、次のような記述がみえる。
   北番村杣野分  第二小区
  戸数 二百五十三戸
  人員 千二百八十八人 男 六百七十九人
             女 六百九人
   北番村大味川分 第三小区
  戸数 二百二十二戸
  人員 千百六十三人  男 六百十六人
             女 五百四十七人
 この記録をかりに明治五年(一七七二)のものとすれば、さきの明和八年の記録から約一〇〇年経過した時点のものということになる。とすれば、面河の人口は一〇〇年間に二九五人、つまり、一年平均約三人の伸び率で、さきの寛保から明和まで三〇年間の伸び一年に三〇人に比べてはるかに悪いことになる。これは、天保の大ききん(一八三三~一八三九)や藩の収奪強化によるものであろうが、それでも、次表の松山藩全体の人口増減表からみるとまだよい方なのである。
 さて、明治二十三年(一八九〇)十月一日、村制施行により、杣野・大味川の一字ずつをとり、杣川村となるのであるが、人口は、「面河村戸口推移一覧表」のとおり、明治年間、いちおう順調な伸びを示すようになる。
 しかし、明治も四十年代に入ってくると減少傾向が表れてくるが、産業革命と地主制の展開が並行した結果と思われる。この間の事情について、明治四十三年十一月二十日付けで、上浮穴郡長に出した「杣川村郷土誌」の中で石墨尋常小学校長棟田照次郎は、次のように述べている。
   杣川村ハ現在茲八年以前ノ収益ニ比較スレバ、米・麦・黍ハ二割弱の増収アリタレドモ林産ノ如キハ却テ減少セシニ拘ハラズ其経費ハ一躍シテ五倍四千二百余円ノ巨額ニ上リ貧民ハ何レモ之ガ負担ニ苦シミ免税戸数ノ如キハ茲五、六年間ニ殆ド八十ヲ越エントスルノミナラズ小地主亦小作人中ニハ現在二於テスラ尚年々砂産者ヲ続出スルノ現状ナレバ爾後十数年経費ハ此歩合ヲ以テ増加シ其収入高現在ニ止マラバ全村挙テ破産スルニ至タヤモ斗リ難シ。
 また、彼は、出稼人・寄留人の一覧表を付したうえで、次のような見解も述べている。
   本村ハ開拓セラレタリト雖維新前四・五十年迄ハ戸口少ク且ツ村内到ル処老樹欝蒼タリキ然ルニ維新前後ニ至リ交通ノ道漸ク開ケ材木ノ需用ヲ増スニツレ杣木挽等材木仕成二入リ来リ住所ヲ占ムルモノ甚ダ多ク戸口俄ニ増加スルニ至レリ然レ共現在ニ於テハ樹木ハ殆ド伐裁シ尽シタレバ土地ノ収穫ハ是等ノ人ノ需用ヲ支フルニ足ラザルガ故ニ寄留或ハ出稼人ハ年々増加シツツアリ(中略)本村ニ於ケル出稼人ハ四季ニヨリ或八月ニヨリ大ニ其数ヲ異ニスレ共夏秋ノニ季二最モ多ク春ハ之二次ギ冬ハ何レモ帰村スルヲ常トス本村中出稼人最モ多キハ笠方ニシテ若山及ビ渋草之ニ次グ
 また、笠方尋常小学校長大西峰次郎は、明治四十三年十一月四日付の「郷土誌調査報告」で、笠方地区の自然増(減)の状況を次のように報告している。
 これをみると、限定された笠方地区だけではあるが、増減の変動が大きく、不安定な生活状態であったことが推察できる。

松山藩人口増減表

松山藩人口増減表


杣川村出稼人・奇留人一覧

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出産・死亡十ヶ年比較

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