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面河村誌

六 松山歩兵第二十二連隊と我が村

 明治六年(一八七三)一月、国民の男子二十歳に達した者を兵籍に編入する法令が頒布された。いわゆる徴兵令、国民皆兵である。(昭和二十年=一九四五廃止)
 松山歩兵第二十二連隊の創設は、明治十六年(一八八三)六月、松山にその第一大隊を衛戌せしめ、同二十一年十二月全連隊の編成が完了した。
 兵営は松山城旧三ノ丸跡に設置、大正六年兵営改築と同時に旧二ノ丸跡に陸軍衛戌病院が設置された。この地を通称堀之内と称し、敷地面積六万四四一二坪、三方が堀に囲まれ南堀端に連隊正門があった。
 城北練兵場(通称道後練兵場)は、明治二十二年五月購入、面積七万二九七坪(現在の日本赤十字病院、愛媛大学など)敷地一面にクローバが密生して、市民の散策の場、運動場でもあった。
 松山歩兵第二十二連隊に、軍旗が授与されたのは、明治十九年(一八八六)八月十七日、荘重なるラッパの響きが、勝山城にこだまする。一糸乱れぬ不動の姿勢で参列する「着け剣」の兵士、将校の抜刀のサーベルが夏の太陽の光をはねかえす。厳粛なる静けさのなかを、護衛兵に守られた、栄えある連隊旗が進む。これ正しく連隊最高の儀式である。
  歩兵第二十二連隊ノ編成ヲ告グ、仍テ今軍旗一旒ヲ授ク。
 連隊は第五軍広島鎮台に所属し、後広島鎮台は第五師団と改められ、明治二十七、八年(一八九四、一八九五)日清戦争には、第五師団に従い出征し、翌年八月凱旋した。
 面河村(杣川村)の戦没者は、次の一人である。
  陸軍歩兵一等卒 池川市太郎
(明治二十八年一月二十三日、朝鮮新義州陸軍兵站病院において戦病死)
 明治二十九年、松山連隊は、新設の善通寺第十一師団の隷下に転じ、さらに明治四十年、師団管区改正の結果、建軍の昔にかえり、再び広島第五師団管下に入った。しかしながら愛媛県の壮丁は二分せられ、上浮穴・周桑・新居・宇摩の四郡は、善通寺歩兵第四十三連隊に編入せられた。なお特科兵(騎兵・砲兵・工兵・輜重兵)は、県下全域から第十一師団に入営するという変則なものになった。本県の壮丁の三分の一は、善通寺歩兵第四十三連隊に入営していたというから二十二連隊についで忘れることのできない四十三連隊である。
 明治二十九年十二月、高知歩兵第四十四連隊が、松山兵営内で新設され、同三十年七月、高知県に移転した。兵士は三坂峠を越え、久万川・面河川を下り、徒歩の行軍で高知市外朝倉の新兵舎に移った。
 明治三十七年(一九〇四)、日露両国が戦争に突入、同年五月二十一日高浜港より出征、同年六月第三軍(軍司令官乃木希典陸軍大将)に編入せられ、特に前後三回に及ぶ旅順要塞の総攻撃、奉天の会戦(満州軍総司令官陸軍大将大山厳)には、鴨緑江軍に編入せられ、明治三十九年一月、奉天より凱旋の途につき、同十一日、全連隊高浜に上陸した。
 この戦争で、面河村の戦没者は、陸軍歩兵上等兵高岡鹿蔵ほか一七名である。
 大正八年の記録によると、当時の陸軍の下士官以下の前料定額は、一日一二銭六厘、主食は、米七、麦三の割合、副食は、朝、トウフ・ネギ・イリコの味噌汁、昼が魚の煮付け・漬物、夕食は、牛肉五匁・タマネギ・ジャガイモの煮ものなどとなっている。
 手当(給料)は、一、二等卒が日当五銭二厘、上等兵六銭、伍長の初任給が一五銭五厘、一〇日ごとに支給されている。酒保で買うたばこ(ほまれ二〇本入)一個七銭である。
 二十二連隊は、明治四十四年二月以降二年間満州守備に服し、旅順に駐屯、大正八年、シベリアに出征した。これは、十月革命(一九一七)で成立した、ソビエト政権を打倒するため、対ソ干渉戦に従事したチェコ軍救援を名として、シベリア、バイカル湖以東で軍事行動を行い、東部シベリアを勢力範囲にしようとするものであった。こうした日本の立場は、しだいに不利となり、同九年所期の目的を達することなく撤兵した。
 昭和七年(一九三二)満州事変がぼっ発するや、二月二十四日動員下令、大場鎮・嘉定の戦闘に参加、昭和八年三月二十九日、高浜港着、松山に凱旋した。
 昭和十二年(一九三七)八月十四日動員令下る。永津部隊として、勇名をとどろかせた。翌十三年九月、二十二連隊に再び、大動員令が下命された。この部隊が栄光の肉弾部隊、連隊歴史上にその勇名をとどめた。二十二代連隊長陸軍大佐永津佐比重は、二十三代連隊長陸軍大佐村治敏雄と同年七月交代している。
 村治部隊は、歩兵二十二連隊の正統を継ぐ最後の部隊であり、「凱旋なき部隊」になろうとは部隊長から二等兵に至るまでだれ一人知るよしもなかった。
 日清戦争・日露戦争など、数多くの戦線に立ち、砲弾に破れ、風雨にさらされ「フサ」のみ残った軍旗、この時を最後に、再び県民の前にその雄姿を現すことはなかったのである。
 第一陣の出陣は、九月四日午後一時、第一、第三大隊、続いて連隊本部と第二大隊が、翌五日午前零時、再び帰ることなき深夜の営門を後に、沿道を埋め尽くす見送りの群衆をかきわけるように二十二連隊の軍旗は、粛々と松山駅へ進む。征くものと残るもの、父が、母が、妻が、兄が、最後の別れを惜しむその一瞬、不思議に万歳の声はなかったということである。
 やがてこの村治部隊は、南満州錦県北大営の兵舎に入り、関東軍第三軍の隷下となる。
 昭和十六年(一九四一)六月二十二日、ドイツがソビエトと開戦、この時、日本の新国策に基づいて下命したのが「関東軍特別大演習」。対ソビエト戦備を強化する目的で、関東軍の兵力を倍増させようとする大動員計画であり、略称「関特演」という。
 同年七月、召集令状が全国津々浦々に飛んだ。
 愛媛県下では、七月二十七日臨時召集下令、「丸亀西部第三十二部隊に応召すべし」。編成されたのは、関東軍第六十四兵站司令部付、第六四一部隊、駐屯地、満州東寧城子溝である。
 関東軍がノモンハンで対ソの戦いで死闘を続けていたころ、松山二十二連隊では、いま一つの新設部隊が編成された。第四十師団、防諜号「鯨」、やがて全中国二万数千キロを駆け続けるその兵力の充実ぶりは、「鯨」と呼ばれるにふさわしかった。第二三四部隊、部隊長重松陸軍大佐、常にその巨鯨の先鋒部隊として活躍した。
 そのころ日本赤十字社松山支部病院の看護婦も白衣の天使として出征した。
 「鯨」の第二三四部隊が、郷土松山の兵営で動員されると同時に、留守部隊として編成されたのが歩兵第一二二部隊、戦時部隊号西部第六十二部隊、やがてこれが南方に派遣される第六十五師団「夏」の編成要員である。バターン半島、コレヒドール要塞の攻撃、時既に遅く、制空・制海権を奪われた日本兵は、撤退もない、補給もない、日々飢餓への転進であった。
 昭和十八年、高等専門学校・大学予科の修業年限を二か年、大学は二か年半をもって卒業に改め、当該学生全員を戦闘要員として徴集し、軍務に服させることとなった。
 同年十二月八日、愛媛県下のそれぞれの学生約三〇〇人は、幹部候補生として、松山西部第六十二部隊に召集された。いわゆる「学徒出陣」である。現村長中川鬼子太郎も、松山経済専門学校から入隊している。
 昭和十九年七月十六日、歩兵第二十二連隊の予州健児の闘魂を秘めた栄光の軍旗にも、満州東要において動員令が下った。防諜号、山第三四七四部隊、部隊長陸軍大佐田中幸憲、遠く故郷を離れてなじんできた赤レンガの西東安の兵舎を極秘のうちに後にして、師団の集結地釜山へ。
 八月五日沖縄に上陸、そして昭和二十年六月十七日、ついに玉砕した。
 日清戦争・日露戦争・シベリア出兵・中国大陸の転戦・満州そして沖縄と、つねに戦陣のまっ先に戦い続けた予州健男子の捧げる武勲の軍旗は、沖縄宇江城の第二十四師団司令部師団長室(師団長陸軍中将雨宮巽)で、六月二十三日焼かれて洞中の土深く埋められた。
 明治十九年(一八八六)八月十七日、この軍旗が東京の宮中で明治天皇から下賜されてから五九年目である。
 ああ、松山歩兵第二十二連隊の悲壮な最期である。