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面河村誌

一 金融恐慌と不景気

 昭和元年(一九二六)は、たった七日間、昭和の夜明けは、正しくは昭和二年である。激励・激変・不景気風の吹きまくった夜明けであった。
 昭和二年二月、東京渡部銀行の休業、台湾銀行の取付け騒ぎ、さらに銀行の休業が相次ぎ、いわゆる「金融大恐慌」がぼっ発した。
 愛媛県でも、工業の中心地である今治市の、今治商業銀行が一月二十四日に突如休業。三週間の預金の支払停止を発表した。原因は綿糸の大暴落で、大口貸出金の回収不能、不況による投資の固定化などのためである。
 米価も大正十五年(一九二六)一二円七〇銭(四斗)であったのが、昭和五年には、六円二八銭(四斗)と、半額以下に値下がりしている。
 東北地方を中心とする米作地帯は、その打撃をもろに受け、不況のどん底にあえぎ、出かせぎ・欠食児童・娘の人身売買さえ行われるほどに追い込まれた。
 東京・大阪・神戸などの都会は一九三〇年(昭和五年)代から、当時流行の尖端を自称するモボ(モダンボーイ)・モガ(モダンガール)が横行。大阪を発祥地とする赤や青のネオンサイン輝くカフェーは、田舎娘のその日からでも「女給」として飯にありつける華やかな職場となった。
 不景気の陰に咲く「徒花」は、余りにも悲しい数々の物語を残している。
 政治・経済の歯車が、どこか狂いつつあった。
 昭和二年四月、政府は緊急勅令で、三週間のモラトリアム(非常緊急の場合、一定期間法令により、いっさい支払を中止(延期)すること)を実施した。さらに政府は、緊急実行予算で、経費約九〇〇〇万円の節約を発表、昭和五年八月には、農漁村救済のため七〇〇万円の融資を決定している。
 昭和四年六月、教員の俸給不払・減俸・馘首反対運動が各地で烽火を上げ、民間企業でも、鐘渕紡績などの減給ストライキ・有名な東洋モスリン東京亀戸工場(従業員五〇〇〇名)のストライキ(この争議で女子工員の自由外出が初めて認められた)、不景気の風は、ひしひしと広がっていった。
 政府も昭和六年官吏の減給令を公布、同年六月一日から実施した。
 杣川村でも、昭和六年三月、村長菅広綱は、役場職員の給料を、一か月一円ないし三円の減給辞令を交付している。
      杣川村書記 天野正克
   月俸三十三円ヲ給ス
    昭和五年三月三十一日    杣川村
   (減給辞令)
      杣川村書記 天野正克
   月俸三十二円ヲ給ス
    昭和六年三月三十一日    杣川村
 一般住民も、北九州地方の炭坑労働者として、出かせぎに出て、その地に定着した者も多数である。
 「国は著しく富めるも、民は甚だしく貧しげに驚くべきは是等文明国に於ける多数の貧乏人である。」とは一九一三年イギリスの経済学者、アダム・スミスの言葉である。こうした社会的不安は、昭和初代の生活の基調音であったかも知れぬ。その不安はいろいろな方面に、明らかに現れつつあった。
   産業上の諸階級間の不平、政党各派の紛擾、世論の神経過敏等々、その根本の原因は、即ち貧乏の存在と、その苦痛に外ならぬ、これが社会的騒擾の中心であり、中核である。(川上肇博士、貧乏物語)
 昭和五年(一九三〇)十一月、内閣総理大臣浜口雄幸は、東京駅において狙撃され、同七年陸海軍将校らは内閣総理大臣犬養毅を射殺(五・一五事件)、同十一年青年将校がクーデターを企て東京麻布第三連隊などの下士官、兵一四〇〇人を率いて、大蔵大臣高橋是清らを殺害(二・二六事件)など、さまざまなテロ事件が発生した。
 無産政党の誕生、言論の統制、軍部の強引なるアジア(中国・満州)大陸進出は、歯止めのきかぬ太平洋戦争ヘエスカレートしたが、その根底をなすものは、昭和の初めの「金融大恐慌」であり、農山村の生活の疲労・困憊・都市の飯米要求闘争・「在営(軍隊)兵家庭の困窮を救わん」の文章が陸軍の一部に配布されるなどにみられるように、国民の貧乏のためかも知れぬ。
 あるいはこれが、経済的にみた一つの史観ともいえる。