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面河村誌

六 日露戦争

 明治二十七、八年の日清戦争後、ロシアは東清鉄道(満州里=綏芬河の本線とハルピンー大連間の南満州支線からなる)の敷設権を、清国より獲得し、さらに大連、旅順を租借して韓国に手を延ばそうとした。さらに北清事変(明治三十三年一九〇〇)つまり義和団が華北の在留外人の生命・財産を危険にした中国の暴動に対し、英・米・露・日等の連合軍が天津、北京へ出兵)後、満州支配の野望を露骨に示し始めた。このため、日清戦争後、朝鮮・満州・華北に海外市場を求め、大陸進出の機会をうかがっていた日本と、ロシアは、まっこうから対立した。なお共同利害をもつ英国と、明治三十五年(一九〇二)一月、日英同盟(後に攻守同盟)を結んだ。
 さらに米国は、門戸開放・中国領土の保全を唱え、反露的態度を取っていたから、日本は、英国・米国の支持を受け、強硬政策をとり、韓国を日本の保護国とすることを要求した。
 明治三十七年(一九〇四)二月十日、日本はロシアに対して、宜戦を布告した。
 第一軍(黒木軍司令官)は、鴨緑江を渡り、満州九連城へ、第二軍(奥軍司令官)は、遼東半島へ上陸した。
 松山歩兵第二十二連隊に、動員令が下ったのは、明治三十七年四月十九日、同二十七日動員完結、五月十一日高浜港より乗船、清田盛宗省大澳に上陸、第二軍の戦闘序列に入った。
 同六月六日第ニ軍を脱し、第三軍(軍司令官乃木希典大将)に編入された。二十二連隊の郷土兵士は知るや否や、やがて激烈な白兵戦を繰り返す旅順要塞の攻撃が、この日、運命づけられたのである。
 まず、剣山の戦いに参加、龍頭南方の高地攻撃では、右翼は高知歩兵第四十四連隊、左翼は善通寺歩兵第四十三連隊、郷土連隊は相呼応して敵を大孤山以西に撃退した。
 悲壮を極めたのは、旅順要塞二〇三高地の死闘である。明治三十七年八月十八日から同年十一月下旬に至る旅順総攻撃。
 松山歩兵第二十二連隊の属する善通寺第十一師団(鮫島師団長)は、二十二連隊を「東鶏冠山北堡塁攻撃隊」、四十四連隊を「東鶏山第二堡塁攻撃隊」とした。ロシア陸軍が誇る難攻不落といわれた東鶏冠山の要塞は、あくまで、伊予・土佐の両連隊で陥落させる、という軍の作戦計画であった。
 十一月二十六日、旅順要塞第三回目の総攻撃で、東鶏冠山北堡塁に向かって、決死の突撃また突撃で、北堡塁の斜面を埋めた。両連隊兵士の戦死者は、将校三九、下士卒八五二、戦傷者将校七〇、下士卒二千余人であったという。
 この戦いで、本村出身者では陸軍歩兵一等卒、山本国一ほか五勇士が戦死している。
 陸軍の旅順要塞攻撃と併行して、旅順軍港のロシア艦隊を港内に封し込めようとする海軍の旅順港口閉塞作戦は、前後三回夜陰に行われた。
 最も壮烈を極めたのは、広瀬武夫海軍中佐を指揮官とする、第三回閉塞作戦である。
 海軍三等兵曹山辺徳次(渋草)は、戦艦富士に乗組み出征。第三回旅順口閉塞隊決死隊に志願、閉塞船は朝日丸。広瀬中佐・杉野兵曹長の部下として、明治三十七年七月三十日夜半、旅順港外に到着し作戦目的を遂行。しかしながら、旅順要塞からロシア陸軍の探照灯に照らされ砲弾の集中攻撃を受け、海底に沈めようとする朝日丸から脱出中、ついに壮烈なる戦死を遂げている。
 海軍一等兵曹松岡平蔵(本組)は、軍艦磐城に乗組、第三回旅順口閉塞隊の決死隊に志願。閉塞作戦に参加した勇士である。明治四十年、封島竹島海軍病院にて惜しくも戦病死している。
 明治三十八年(一九〇五)一月一日、東洋一を誇る旅順要塞もついに陥落。二〇三高地、各砲堡に、日章旗へんぽんと翻り、第三軍司令官乃木希典大将、ロシア軍令官ステッセル将軍と会見した。有名な水師営の会見である。
     水師営の会見(文部省唱歌)
   旅順開城約なりて、      庭に一本棗の木
   敵の将軍ステッセル      弾丸あともいちじるく
   乃木大将と会見の       くずれ残れる民屋に
   所はいずこ水師営       今ぞ相見る二将軍 (以下略)
 明治三十八年一月、松山歩兵第二十二連隊は、第三軍を脱し、鴨緑江軍に編入せられ、奉天の会戦に参加。日本軍は、同年三月十日、ロシア陸軍最後の拠点奉天を占領した。同年四月、満州軍司令官(司令官大山巌)の指揮下に入り、明治三十九年一月三日奉天駅から乗車、凱旋の途につき、同一月十一日、高浜港に上陸、松山連隊に帰営した。
 この戦役で、松山歩兵第二十二連隊の戦死者六五三、負傷者三八九一、行方不明六七一、特に旅順要塞での激戦は、八月二十日から、十二月十九日までの半年。行方不明者は、将校六、下士六六三九、負傷したままか、敵軍のため倒れたか、広い満州の野で救いも待てず果てていったか、連隊に凱旋の栄光がありながら、寂しく赤い夕陽の満州に埋まった兵士たちである。
 連隊が出征してから最後まで戦列に参加し、しかも無傷だったのは、青木連隊長以下わずか八名とか、これは野戦病院か、兵站勤務だった。
 愛媛県下の動員令は明治三十七年二月六日から、翌三十八年七月十七日にかけて、前後二三回、召集人員は一万二〇九一人、当時の県下の人口、男五四万人余。
 当村からの、出征兵士の数は、戦死者は、陸軍歩兵一等卒山本徳太郎(笠方梅ヶ市)が、旅順東鶏冠山北砲堡で戦死、その他一六勇士である。
 軍馬の徴発総数八六三頭、価格一頭五三円から九〇円、戦場での死傷馬は一七頭であった。なお、上浮穴郡から七六頭が徴発されている。
 日本海軍は、旅順ウラジオストックのロシア艦隊を壊滅させ、明治三十八年五月二十七、八の両日、朝鮮海峡でロシア、バルチック艦隊(司令官ロジェストウエンスキー中将)を日本の連合艦隊(司令官東郷平八郎大将)が迎え撃ち、日本艦隊は、圧倒的勝利を収めた。
 満州軍総司令官大山大将の奉天入城、東郷大将の日本海海戦の勝利で、さしもの大国ロシアも日本の軍門に降り、明治三十八年八月十日、米国ポーツマスにおいて、日露講和会議を開催した。
 ロシアは、朝鮮における、日本の政治上・軍事上・経済上優先的権利を認め、関東州(遼東半島)の租借権(九九年間)、南満州鉄道及び、その付属地の租借権、撫順炭坑、その他いっさいの権益を日本に譲渡し、樺太の南半(北緯五○度以南)を割譲した。
 当時の軍歌で、今も残るものは、満州の野戦での悲しい別離を歌った「戦友」と「橘中佐」がある。

  戦 友(学校及学庭用言文一致叙事唱歌)
  一 ここは御国を何百里       二 思えばかなし昨日まで
    離れて遠き満州の          真先かけて突進し
    赤い夕日に照らされて        敵を散々懲らしたる
    友は野末の石の下          勇士はここに眠れるか
                      (以下略)  
     橘 中 佐 
  一 遼陽城頭夜は更けて       二 敵の防備の中心の
    有明月の影清く           先づ守山堡乗っ取れと
    霧立ちこむる高梁の         三十日の夜深く
    中なる塹壕声たえて         前進命令たちまちに
    寝覚めがちなる敵兵の        下る三十四連隊
    肝おどろかす秋の風         橘大隊一線に
                      (以下略)
 明治三十七、八年戦役には、愛媛県から青史に残る武将が生まれた。
 陸軍の桜井忠温は「肉弾」の著者。この本は日露決戦の戦史である。後年陸軍省新聞班長、陸軍少将。出征の際は陸軍少尉、松山歩兵第二十二連隊の栄誉ある連隊旗手であった。
 海軍大佐水野広徳は、「肉弾」と並び称せられた「この一戦」の著者である。
 陸軍少将秋山好古は、騎兵第一旅団を率いて、ロシア「コサック騎兵」と、満州の広野で対決、日本騎兵の名を世界にとどろかし、騎兵育ての元祖ともいわれた。後の陸車大将、晩年は、松山私立北予中学校(現在県立松山北高等学校)の校長、二十二連隊と合同の、松山市内の中等学校の発火演習では、城北練兵場で、馬上ゆたかに閲兵したものである。実に親しまれた好々爺。
 日本海海戦の参謀秋山真之海軍中佐は、好古の弟である。バルチック艦隊を迎え撃つ連合艦隊の旗艦は「三笠」、司令長官海軍大将東郷平八郎、参謀長海軍中将加藤友三郎。
 明治史の頂点が、明治三十八年(一九〇五)の、日本海海戦だ。近代日本の運命を変え、近代史の分かれ目となった。五月二十七日、秋山は世界海戦史上類例のない戦いをしている。彼はこの海戦で徹底的に勝ち抜いた。
 「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」旗艦三笠のマストに翻るZ信号。日本海海戦の第一報「敵艦見ユトノ警報二接シ我ガ艦隊ハ直二出動敵ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」これは文学である。連合艦隊の将兵の気持ちが躍動している。日本全国の人々に響いた、雄大なるレポート文学である。
 この戦争で日本の失ったものは、死傷者約二〇万人、病疾約一七万人、軍馬の死傷約四万五〇〇〇頭、捕虜になった者約二〇〇〇人、水雷艇などの艦船九一隻、軍事費約一五億二三〇〇万円、うち陸軍費一二億八三〇〇万円、平常時の国家予算の約八か年分という。
 開戦当初から、だれ一人として、勝算をもっていたものがなかったというし、立ち上がり、ロシア軍をたたいて、速やかに、講和の手がかりを、つかむという政戦両略の根本方針を決めていたのである。
 当時の指導者は、重税こそ課したが、「一億一心」「ほしがりません勝つまでは」、国家総動員、物資統制など、昭和時代にみられた施策は、一つも国民に強要せず、軍も、政も、よくその国力を心得て戦争の早期解決に専念した。兵力の限界、物資の窮状を知らされていなかった太平洋戦争の「大本営発表」とは、全く異質のものである。
 勝った、勝ったと国民を酔わせておいて、ついに国家さえ葬り去った、満州事変以後の軍閥、政治家との差は、おのずから明らかだろう。
 明治軍人にあるものは、徳川幕府以来の「侍」の精神である。太平洋戦争当時の軍閥とは、いささか違うのではあるまいか。
  降る雪や明治は遠くなりにけり(中村草田男)