データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

面河村誌

四 享保の大飢饉

 享保十七年(一七三二)の稲作の大被害は、前代未聞のもので、その災害は関西全域に及んだという。数十日に及ぶ長雨、そして、その後の大旱魃及び蝗のたいへんな発生で、米の収穫皆無の地方もあり大飢饉となった。
 西国の餓民二六六余万人、死者一万二〇〇〇余人といわれた。
 享保の飢饉の被害を受けたのは、松山藩で、特に道後平野の災害がはなはだしく、伊予郡筒井村の百姓、作兵衛が麦種入りの袋を枕にして、飢死(享保十七年九月二十三日)したという、今の世までも、義農作兵衛として語り伝えられている。
 ある「由来記」によると、
  春より長雨、田方植付は、よく候へ共、六月以降、うんかと云う虫つき、一面に田方痛み、一粒も収穫これなきに付、家中人数扶持に仰せつけられ、飢人数多くして、死者多く、死者辻々、町々にこれあり、其の数はかり難く、町、郡方へは、籾米、麦少々、人別見分け上くださる。
  米、麦、大豆、小豆のねだん高値になり、米銀札一匁に、一合一勺までに相成り、……………
また、「味酒社日記」には、
  郷方の者共、町方へ、おいおい、おびただしく、袖乞いにまかり出で、今日などは多人数、袖乞いと申し、町家へ押しかけ候に付、町中しとみを打ち、奉行手付、町奉行手付、諸郡月番等召連れ、諸郡打まわり、目付、手代、同心など押えにまかり出で、それ故に十七日頃より、多人数打連れ、袖乞の儀相止む。右袖乞は、伊予郡の者、最も多き由、……………
 松山藩は享保十八年正月から、家老久松庄右衛門などを、道前、道後の諸郡を巡回させ、被害調査をし、米や衣類などを支給した。また、年貢御免の処置をとり、塩・味噌・種籾を配り、さらに、米・麦・大豆などの値下げの処置を取った。
 享保の飢饉がこの久万山に、どれほどの被害を与え、百姓がいかほど難渋したかは、全く不明である。しかし、大きな災害が起これば、地理的に不便な山間部は、平坦部以上に、深刻な食糧不足に見舞われることも想像できる。
 享保の初め、久万山の人口は、二万人以上を数えたのが、この飢饉以来減少して、一万七〇〇〇人以下になったという乏しい資料が、ある程度この災害のすさまじさを物語っているといえる。
 享保十八年松山藩主久松定喬は、飢饉の処置不調法の至りという罪で家老奥平藤右衛門を久万山に蟄居させた。この飢饉の経験から、救済施策の失敗を反省し、松山藩は災害に対する根本的な対策を進めたようである。特に、それから、約四〇年後、安永四年(一七七五)の非常御囲籾制度が、それの一つで、これが今日まで、約二〇〇年間連綿と続いており、それが久万凶荒予備組合の起源ともなっている。
 なお幕府は、飢饉の対策として、米の貯蔵を勧め、享保十九年青木昆陽に命じて甘藷を試作させ、その種子を全国に配った。
 伊予国においては、その甘藷の試作より二〇年前、越智郡大三島下見吉十郎が甘藷を作っていたという。吉十郎は、六部行者として、全国を巡っていたが、正徳元年(一七一一)九州薩摩国で、甘藷の種子を得て、禁を犯してひそかに持ち帰り、付近の島々に作らせ、飢饉などの応急非常食にした。今も大三島では、「いも地蔵」として祭られ、吉十郎の余徳をしのんでいる。