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面河村誌

二 浮穴郡の起こり

 浮穴郡という名が初めて、古文書に見えるのは、奈良時代天平一九年(七四七)、大和国法隆寺が役所に報告した、財産目録である。法隆寺の荘(私有地)が伊予国に一四か所ある。この内訳は、神野郡(新居郡)一か所、和気郡二か所、風早郡二か所、温泉郡三か所、伊予郡四か所、浮穴郡一か所、骨奈(忽那)島一か所である。
 これらの荘が、各郡内のどこにあったかは明らかでないが、浮穴郡の一か所というのは、今の上浮穴郡内ではない。当時の浮穴郡は、今の松山市久谷から砥部町・森松町・重信町などの広い範囲であった。
 「浮穴」は、どう読んでいたのであろう。承平年間(九三〇年代)の「和名抄」によると、宇城安奈(うきあな)と読ませている。
 浮穴という郡名は、何によってつけられたであろうか。現在、奈良県大和高田市の近くに、近鉄の「浮孔」という駅がある。ここは安寧天皇の片塩浮穴宮という皇居のあった所と伝えている。なぜ浮穴宮と呼んだかというと、このすぐ西側に金剛山脈が南北に連なっており、これを越すと大阪府、昔の河内国若江郡で、ここに浮穴氏と呼ぶ一族が古くから住んでいた。この一族が山脈を越えてここまで勢力を伸ばしていたものと思われる。
 恐らく、この河内国の浮穴氏が繁栄して、その分かれが海を越えて伊予国に住みついたのであろう。そしてその氏の名が郡名となったものであろう。平安時代初期の「続日本後紀」の承和元年(八三四)の記事に、伊予国人浮穴直千継という者の名が出てくる。直は朝廷から賜った家格を示すものである。そして千継の先祖は大久米命としてある。大久米命の子孫は久米氏でもあるから、久米氏と浮穴氏は同族である。
 して見るとこの両氏は相携えて伊予国に移り住み、久米氏は久米郡に、浮穴氏は浮穴郡に住みついて、この地方を開拓したと考えられる。
 なお、「伊予温故録」によると新居氏の祖為世の四男浮穴四郎季成という者が、高井に館を構えたことを記しているから、浮穴氏の根拠地は今の松山市高井の辺りで、この辺りが浮穴郡の中心であったと考えてよかろう。
 浮穴郡がいつできたかは明らかでない。ただ奈良時代の天平一九年、つまり今から一二三〇年くらい前には既にできていたということがわかる。
 なお藩政時代に松山藩では浮穴郡を里分と山分に分けており、久万山は浮穴山分と呼ばれていた。
 さて日本国家の政治組織は、大化の改新(六四五)から大宝律令制定(七〇一)までの七世紀後半にほぼ定まった。国・郡・里の制度もその一つで、国及び郡は戸口の多少により、国は大・上・中・下の四等に、郡は大・上・中・下・小の五等に区分された。伊予国は上国、浮穴郡は初め最下の小郡であったと思われる。
 それが、さきにあげた平安時代初期の「和名抄」によると、一等上げられて下郡となっている。それは浮穴郡に井門・拝志・荏原・出部の四郷のあることが記されていることでわかる。大宝令の定めでは里は地方行政の下部単位で今日の村に当たり、五〇戸をもって一里とすることになっていた。郡については一六里以上が大郡、一二里以上が上郡、八里以上が中郡、四里以上が下郡、二里以上が小郡であった。里は霊亀元年(七一五)に郷と改められたので、「和名抄」の四郷は四里のことである。
 「和名抄」にいう浮穴郡四郷は現在のどこであろうか。井門郷は松山市の森松・石井地区のどこかであろう。拝志郷は温泉郡重信町のもとの拝志村辺り、出部郷は伊予郡砥部町のどこか、恐らく古く伊予砥と呼ばれた砥石を出した地域で、土部郷と呼んだものを書き誤ったものと思われる。荏原郷は松山市久谷地区のどこかであろう。
 このように見てくると、古代の浮穴郡四郷は重信川をはさむ地域であって、現在の上浮穴郡には郷名に当たる所がない。そのころの郡や郷は戸を支配し、人住まぬ土地を含まないから、今から一〇〇〇年以前には上浮穴郡地域はまだじゅうぶんに開発されず、ほとんど人の住まぬ所であったと見られる。古代に浮穴郡というのは、現在は郡名を失った下浮穴郡の一部を指したものであった。