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久万町誌

一四 斉院 敬和

 久万町曙町三丁目、真光寺の墓地に眠る斉院敬和は、天保二年(一八三一)松山に生まれた。通称和太郎、紫庵と号した。
 斉院敬和は、松山藩士、三上是庵の門人であった。西明神村(現久万町)の時の庄屋、梅木源平を中心とする庄屋らの懇願により、三上是庵の許しを得て、明治元年(一八六八)、三坂峠を越え梅木源平の家に着いた。その後一六年間、久万地方の教育に従事したのである。
 敬和の師、是庵は、名を景雄、通称新左衛門。松山の人で、文政元年(一八一八)生まれ、伊予の儒者、高橋復斉(松山)、村田箕山(松山)から学び、ついで江戸遊学。天保一四年(一八四三)に栖遅庵より崎問学に接する。このころ、是庵は、梅田雲浜・吉田松蔭らとも交友関係を結んだ。慶応三年(一八六七)に松山に戻り、藤野正啓の推挙を得て、一四代定昭の顧問となる。慶応四年(一八六八)、徳川家に近い松山藩が、戊辰戦争で朝敵と目されたが、是庵らが主張した恭順論が効を奏し、土佐の藩兵による松山進駐を平穏裡に実現させ、松山を兵火による破壊から救った。明治四年(一八七一)、三上学寮を開き後進の指導に情熱を傾けた。明治九年(一八七六)に五〇歳で没した。
 この三上是庵が五〇歳のとき、斉院敬和は三坂を越えたのである。
 当時は、アメリカ水師提督ペリーが浦賀に来航後、一〇年余を経過していた。しかし、黒船のうわさと尊皇壌夷論は、海を隔て山に囲まれた久万山にも伝わり、人々の不安と動揺を日ごとにあおっていた。
 流言飛語におびえおののく人々の心を救い、生活の立て直しを考えたのが梅木源平である。
 「教育以外にこの世情の救済の道はない。」と源平は郡内の庄屋を説き、松山藩に上申した。
 藩は、是庵のもとへ使者を立て、この旨を伝えた。是庵は、山間僻地へ赴く門弟がいるかどうか不安であったが、機会をみて門人に話すことを約束した。
 数日後、是庵は、門弟を集め、久万山の庄屋や有志の要請を伝えた。源平ら数人の庄屋も同席し、久万山の現状を説明し、久万山へ赴くことを懇願した。
 敬和は、未開の地の教育の必要性を痛感し、久万山へ赴くことを申し出たのである。赴任後の七月二七日に、久万町庄屋、鶴原太郎次の家で開校式を行なった。この時の入門生は、山之内綱太郎ほか一九名であった。
 松山藩随一の儒者、三上是庵に師事した敬和は、識見人格ともに秀で門生はもちろん、久万山の人々に深い感銘を与えた。
 「久万山の青年や子女を教育するためには、家庭を教育しなければならない。家庭を教育することが社会を教育することであり、社会を教育することが家庭を教育することである。つまり、家庭教育と社会教育は車の両輪であり、いずれが欠けても真の教育は成り立たない。」、これが敬和の一貫した教育方針であった。敬和は、講義以外の日は、村々を回って、家庭教育、社会教育の別を問わず、どんなささいな問題についても相談にのり、よく条理を尽くして、懇切ていねいに指導した。人々は、それによって心の安らぎと希望を与えられ、生活の指針を得たのである。
 また、一方では、産業を勧め、久万山の産業の発展に大きな足跡を残すと同時に、人々の生活向上に努めた。
 敬和は、極めて厳格であったが、その言動には温情があふれ、万事に誠意がうかがえた。久万山の人々は、心から敬和を慕い進んで教えを受けた。こうして、敬和と久万山の人々とのきずなは、日に日に深まり、敬和をぬきにしての久万山の教育は考えられなくなってきた。久万山の人々は、敬和の学徳に心から敬服し、敬和は、久万山の人々の精神上の親となって、教育の車軸を同転させていったのである。
 明治四年(一八七一)、多くの人に学問の機会を与えるため久万町に斉院塾を開設した。また、その翌年の学制発布の際、松山藩庁に所属している家屋を借り受け、久万町の小学校の学舎として、更に教育を推進していった。ここに、はじめて独立した学校が誕生したのである。こうして、昼夜にわたって久万山の人々を教育したのである。この小学校の学舎で、明治四一年(一九〇八)、久万小学校の校舎が新築されるまでの三六年間、久万の子弟は教育を受けたのである。
 敬和は、明治五年(一八七二)以降、学区取締りに任ぜられ、久万町をはじめ、上浮穴郡の教育推進者として、その振興に手腕を発揮した。
 明治一七年(一八八四)、身体を害し、病状は日を追って悪化した。人々は、敬和の容体に心を痛め、医師のいる松山で療養することを勧めた。しかし、敬和は、久万山に骨を埋める覚悟で赴任した初心をまげることなく、同年九月、久万の人々に見まもられながら永眠した。
 斉院敬和が、久万地方の教育に身魂を傾けた一六年間になした功績は、あまりにも大きく、人々に与えた感化は、あまりにも偉大であった。
 こうした敬和の功績をたたえ、人徳をしのんで、門人や久万町の有志が、敬和のなきがらを、あつく真光寺墓地にと葬った。