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久万町誌

一三 井部 栄治

 ○ 略 歴
 井部栄治は、明治四二年二月一八日に久万町大字菅生二番耕地一三二六番地第一に生まれた。
 宇都宮高等農林学校林業科を昭和八年に卒業し、翌九年二月に井部栄範の遺志を継いで、久万造林株式会社の第二代社長に就任した。栄治は二五歳であった。青年社長として内外の期待を背負っての登場である。栄治は自ら林地に出向き、作業員とともに汗を流しながら、学校で学んだ新しい育林知識と林業全般について実地に勉強していった。
 栄治は、太平洋戦争時に召集されたが、戦後間もなく元気に帰郷し、直ちに株主総会を開いた。そこでは、会社再建対策も大切だが、戦災復興に必要な建築資材を早急に現地へ供出することを決議した。松山市の復興ぶりは全国でも際立っていたが、これには山林所有者が進んで復興に大きな役制を果たしたためである。
 昭和二二年、栄治三八歳の時、郡内各町村有志の熱心な推挙により愛媛県議会議員選挙に立候補し、好成績で当選した。政治家としての第一歩を踏み出したのである。同年、時の町長の辞職にともない久万町民の要望によって栄治は町長職も兼務するようになった。
 県議会では農林水産委員を務め、林業専門家である栄治は、生涯を通じ地方林業の育成発展に尽くす決意を更に深くした。
 昭和二五年に久万町森林組合長になり地域住民の理解を得て植栽が進められていった。昭和二九年には県議会議長に選ばれ愛媛県の林業行政に特別の努力を注いだ。町長職は昭和二六年に辞任し、県議会議員も昭和三八年四月に退いているが、その間及びその後も多数の公職につき、特に林業関係公共団体の要職にあって数十年、地方林業の発展に力を尽くしてきた。その間、林業関係以外の分野でも地域住民の生活向上を願い努力してきた。町村各地に公民館又は公会堂の建設を呼びかけ、相当額の寄付を行った。会社設立四〇周年記念事業として久万町へ公民館を、また上浮穴高等学校へ図書館を建設、寄贈したほか多くの寄付、寄贈を行っている。その中でも特筆すべきは、久万町への美術コレクションの寄贈である。栄治は、趣味として美術品収集をてがけていた。それは「井部コレクション」として世に知られていたが、一般に公開されてはいなかった。栄治は、それらの美術品を公開すべく、そのすべてを久万町に寄付し「久万美術館」が設立されたのである。しかし栄治は、昭和六二年四月に美術館の完成を見ずこの世を去った。美術館の開館は、栄治の没後二年を経て、平成元年三月であった。
  ○ 政経人としての栄治
 昭和二三年、久万町民の要望によって栄治は町長になった。既に県会議員として、またその他要職にあって町長職に専念することは、多忙を極めることになるが、町議会議員、町民のよき理解を得て一致団結事に当たり、当時大きな問題となっていた新制中学校の敷地及び位置問題も解決し、建設は軌道にのった。中学校の建設については、その建設予算は全額町有林立木売却金をあてることにした。先代社長の栄範が寝食を忘れて説得し、あるいは奨励して植栽した旧菅生村、久万町、旧明神村の数百町歩がこれにあてられた。先人の遺産で町民には負担無しである。二五年五月五日に立派な校舎一棟が完成したのである。
 しかし、校舎一棟は完成したが、本館及び他の教育施設も整えなければならない。久万町有林特別会計として一般予算に計上し、文教、厚生、建設の特別支出は林産物収入によって賄われたのである。戦後の町有林は町財政の大黒柱となっていたが、そのため山は乱伐に近い状態となった。県議会においては、農林水産委員であり、林業専門家である栄治は、生涯を通じ地方林業の発展に力を尽くす決意を更に深くしたのである。山は荒れ、洪水、土砂くずれ、水不足など被害続出であった。そのありさまは、初代栄範が明治五年に見た様子と同じくらい荒れていたと思われる。栄治は防止対策として植樹、砂防工事、林道開設を速やかに行うよう県議会に提案するとともに中央へ陳情、県選出代議士の協力を得て、愛媛県内各地に復旧、防災工事実現に努力した。
 昭和二九年、県議会議長に選ばれた栄治は、愛媛県の林業行政には特別の努力を注いだ。地元久万町森林組合では、まず第一に育苗計画、需要体制を整えた。幸い久万町及び郡内各町村には古くから経験豊かな苗木業者が多数いた。これは久万造林K・Kの育苗法が普及していたためと考えられる。これより前に栄治は、昭和二六年に町長職を退いていた。昭和二六年は、サンフランシスコ平和条約締結調印、日本安全保障条約調印と相次いだ年である。県下の植栽熱はますます盛んで、久万町森林組合は、井部栄治組合長を中心に各理事及び職員が一体となって事業を推進していった。
 昭和三四年三月、久万町は旧川瀬村、旧父二峰村と合併し、ますます盛んに植栽が進められることとなった。三五、三六年をピークに久万町全域が杉、檜林に姿を変え現在の久万林業地を形成し、全国的に注目されるようになったのである。久万の林業は、栄範によって根づかせ、栄治によって育てられたと言える。
 栄治が戦後の林業行政に力を注いだ事は当然のことであったが、多くの公職についている関係上、率先して地域住民の生活の安定を計ることに苦心したのである。まず、町村をはじめ郡内各町村の公民館または公会堂の建設を呼び掛け、あるいは相当額の寄付を惜しまず、会社設立四〇周年記念事業として久万町へ公民館を寄贈した。現在も久万公民館として利用されている。また、上浮穴高等学校へ図書館を建設、寄贈した他、老人に対するいたわりの念厚く、養老院施設制度ができるや、適当な敷地が入手困難であったため私有地を提供交換し、上浮穴郡養老院を建設、毎年正月用の餅米を送ったりしている。
  ○ 趣味人としての栄治
 栄治は、郷土を愛し芸術を愛する温かい心の持ち主であった。それは栄治の収集した作品群をみても明らかである。それは日本の近代洋画家の中でも特に個性のある画家の作品や、郷土にゆかりの深い画人や書家の作品、また郷土の陶磁器等その収集品は広範囲にわたっている。しかし、そのコレクションの持つ個性は、すなわち栄治の人となりを表すに十分なバックボーンを備えている。それを物語るにふさわしい言葉を自身が語っている。「一度美しいものに取りつかれたら、何処までもそれを執ように追い求める熱意と根性が無ければ、コレクターの資格は無い。金と時間さえあれば骨董なんか自然に手に入るものだという考えは間違っている。美を発見する目と、美に対する情熱とがわれわれを駆り立て、それを獲得するまで一歩も譲らないという気概が無ければ美術品を集めることはできない」また、次のようにも語っている。「疲れたひととき、座右のやきものを手に取ってながめる楽しさは格別である。その時やきものはその歴史を語り、窯場の自然環境や陶工の人となりを語りかけてくれる。やきものを見、手で愛撫することにより、その深い味わいを楽しむことができる。ものの味わいは、ものと人の心のふれあい、ものと対話することによって初めて感得せられるものである。中途半端な知識を振り回してやきものを論ずるがごときは、美に対する冒涜である。素直な心と謙虚な態度で対する時、初めてやきものはわれわれに語りかけてくれる。やきものの味わいを知り、やきものの美に魅せられる人生は幸福である。」栄治のやきもの哲学である。ここに述べられた言葉は趣味の世界に語られたことではあるが、栄治自身の生き方をやきもの哲学に映して述べられた言葉とも受け取れる。