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久万町誌

一二 田中 執

 大正一三年師走の明神村、寒風が吹き粉雪の舞う早朝、寒そうな様子もみせずきりりと背筋を伸ばし、きぜんとした和服姿で歩む人がある。その厳格な顔と姿勢は、見る者をして一見近寄り難い印象を与えるが、彼は道行く人々と親しくあいさつを交わして行く。雨の日も風の日も、彼は約一里の道を徒歩通勤する。彼は明神村の村長であり、当年とって三五歳、明神村産業組合の組合長でもある。更に、明神村青年団の団長をも兼務しており、一五〇有余名に及ぶ青年団員のリーダーでもある。
 久万農協明神支所の前庭に、建物と向かい合うようにして一基の碑があり、その碑名に彼の名を読むことができる。碑は昭和四五年に建てられたものであり、碑名は「田中執翁頌徳碑」とある。この碑は、田中執を農民の父とも呼び敬慕して止まない人々によって、彼の人徳と偉大なる事績を後世に顕彰するとともに、併せて後進の規範・励みともするべく建立されたものである。
 田中執は、明治二二年一月一三日、表吉慶の長男として明神村に生まれる。父親の表吉慶は、松山出身の人で、当時上浮穴郡役所の書記をしていたようである。執は幼いころから学問を好み、向学の志強く進取の気性に富み、久万高等小学校を卒業後、県立松山中学校(現松山東高)に入学、明神村から松山へ通学を試みる。明神村を早朝に出発し歩いて三坂峠を越え、坂本村(現久谷町)へ降り森松から馬車で通う毎日を続けるが、その道程は余りにも遠く、一時期久万ノ台へ下宿もするが経済的事情もあり、その通学は困難を極める。明治三七年二月、日本は日露戦争に突入し、執は業半ばにして卒業を断念し志願兵として満州に出征する。終戦により三九年一月に帰国し、その年六月、一七歳で明神村大字入野の田中九平の養子となる。大正八年一○月、三〇歳で養父九平の家督を相続した彼は、大正一一年一月、明神村助役に就任する。そして二年後、大正一三年四月には明神村産業組合の組合長となり、同年八月には明神村の村長に就任、以後九年間にわたって村政を運営する。貧しい山村の将来を考え、村有林の植林に力を注ぎ、村長自らがマキキャハン姿で植林現場に赴き鍬を取り植林する一方、明神小学校の建築にも奔走し、村の帳簿書類を夜自宅で整理する等、昼夜を分かたず職務の遂行に専念する。
 当時の農村の人々の生活は、現代の我々には想像もできない位厳しいものがあり、貧困と重労働との戦いの毎日であった。そうした厳しい農村の要職にあって、彼は農山村の生活を何とか向上させたい、そのためには産業開発を、何をさておいてもまず農業の振興を図らねばならないと痛感する。農業を実り豊かなものにするためには、無駄を省き、生産性を向上させなければならない。山間高冷地の厳しい自然条件の下で、生産性を高めるためには、その土地に適した作物を作ること、品種改良技術の指導・改善は、必須の要件である。彼はかねてより、県農事試験場の試験結果は上浮穴郡のような寒冷地には適用できないと考えていた。昭和五年の夏、県農務課長が郡畜産組合の視察に来た際、当時郡畜産組合の副会長でもあった彼は、寒冷地試験施設の設置を検討してもらいたい、施設の設置は県下類似の地域にも大きく寄与するであろう旨の意見を述べる。容易に実現するとは思っていなかったので、何の予算もしていなかったところ、その年の秋になり、条件が整えば設置してもよい旨の回答を得る。その時、県の示した設置条件は「住宅一棟と、事務所と作業場を兼ねた建物を造って県へ寄付すること、試験地として水田と畑を提供すること」であった。当時の貧しい村財政では到底対応不可能な条件である。彼は苦慮を重ねた末、寄付に頼らざるを得ないと判断し、三菱鉱業の船田一雄常務取締役、郡畜産組合の大野助直組合長その他の援助を得、自分の土地を担保に久万銀行から多額の借入れをし、自分の山の木材を伐り出す等、私財を投じて施設誘置を実施する。彼の誘置した試験場は、数々の成果をあげつつ今日に至り、現在「久万農業改良普及所」として島村振興に大きく貢献している。
 彼はまた、農業の振興はまず農家の協同が第一であると考え、農業と農村の発展を図るべく協同組合運動にその持てる才能を傾けていくこととなる。大正三年、農業協同組合の前身ともいうべき明神信用購買組合の発足には、組合運営の要である信用評定委員、理事を務める。以来、明神村産業組合、明神村信用購買販売組合、明神村農業協同組合へと、協同組合の歴史の中にあって常に組合の先頭に立ち、組合長としてその明敏な頭脳と独創性を駆使し、組合と農家の指導育成に尽力する。
 昭和三六年、政府は農業基本法を制定、この年を起点として一〇ヶ年計画を立て、全国各地の農業樹造改善対策事業を実施することとした。この事業は、各町村ごとに将米の農産物の需給を考え、主幹作目を選び生産性の飛躍的向上を目途として、零細規模を打開するための土地基盤整備、これに伴う大型機械、施設の導入、経営規模の拡大により自立農家の育成を図るというものである。事業の推進は、その事業内容、事業規模からまず農協の合併問題の解決がその前提条件となる。昭和三四年の町村合併以来、協議を続けて来た町内五つの農協の合併を実現しなければならない。事業に対する賛否両論の中、財政事情の異なる五農協の合併は、組合、農家それぞれの思惑が複雑にからみ合い紛糾する。誠意を尽くしての説得工作と話し合いにより、昭和四〇年四月、町内五農協の合併がようやく実現する。難航の末発足にこぎつけた新久万町農業協同組合は、邪内の歴史始まって以来の大事業といわれる農業構造改善対策事業の完成を期して、初代組合長に田中執を選任する。以来三ヶ年、新久万町農業協同組合は、田中執組合長の下、町行政とも一体となって、不可能に近いとまでいわれた明神地区、畑野川地区の農業構造改善事業を成し遂げ、更に父二峰由良野地区の養蚕センター、直瀬地区の和牛繁殖センター等の事業を実施し、その実績をあげる。
 昭和四四年五月、八〇歳にしてようやく第一線を引くまでの五五年間田中執は協同組合運動の先駆者、指導者として常に要職にあり献身的に不断の努力を積み重ねる。この間、彼の一貫した誠意と清廉な人柄、卓抜した識見と堅実な経営手腕は、広く県下から嘱望されて郡・県各農業団体、組合連合会の多数の要職を歴任し、昭和二一年には県経済農業協同組合連合会の発起人となり、更に、昭和二四年には県議会議員に選ばれる等、県下の第一線の指導者として農村経済の発展向上に惜しみなくその持てる力を注いだ。
 彼は、多忙を極めた半世紀にわたる協同組合活動の間、常に前進を心懸け一歩一歩着実に歩を進めて行く。後継者の育成、教育の重要性を充分に認識し、自分の子供はもとより部下の教育にも力を尽くす。子供は全員松山へ出して教育を受けさせる。当時としてはまれなことであり、容易にできることではない。「お前達に受けさせる教育が私の残してやるお前達への財産だ。後は何も期待するな」彼が子供に向かってよく言った言葉である。自分の部下に対しても学ぶことの重要性を説き、「仕事には創意と工夫が大事である。本を毎日少しでもよいから読み、創造力を養いなさい。什事が忙がしくても暇がないことは絶対にない」と口癖のように言う。自らも暇を見つけては本を読み、家庭にあっても仕事をしているか、本を読んでいるか新聞を読んでいるか、家族の者はそれ以外の彼の姿を余り見たことがないと言う。彼は又、新聞、書物等によって得た知識を可能な限り実地踏査することも心懸け、暇を見つけてよく旅行もした。事業の着手に当たっては、資料収集を徹底して行い、先進地視察を積極的に実行し、あらゆる角度から分析し、検討を重ねた上で方針の決定を下す。彼の読書・研究は、一歩でも前進せんがためのものであり、仕事の処理、問題の解決に当たってその目的を明確にし、与えられた状況の中で最善の方策を見い出すためのものである。
 初志を貫き、常に学ぶことを心懸け、将来を展望し農村経済の発展向上に尽くして来た彼は、昭和三九年黄綬褒章、同四一年勲五等瑞宝章を賜り、同五七年二月従六位に叙せられる。 
 彼は。吉川英治の『宮本武蔵』が大変好きだったという。吉川英治の描く宮本武蔵は、剣豪というよりは、むしろ人生の探究者に近い。人をあざむくことや中身のない上辺だけの飾りを敬遠し、木質のみに価値をおく彼の姿勢、常に向上を目指す彼の真剣な生き方そのものが、この好みによく現れている。
 昭和五七年二月二二日、農村振興の道をまっしぐらに生きてきた田中執は、九三歳でそのひたむきな生涯を閉じた。