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久万町誌

2 国防婦人会

 大正一二年の関東大震災後の人心の不安や動揺とともに激変しつつある思想問題を背景にして、同年一一月に「国民精神振興ニ関スル詔書」が発せられ、各団体が提携し、国民精神の高揚に当たることになった。
 文部省には、社会教育局が新設され、それらの運動を推進する一方「公民教育講座」等を奨励した。
 文部省は、婦人教育、母親教育について、しだいに力を入れ始め、昭和五年一二月、「家庭教育振興ニ関スル訓令」を発し、全国の婦人団体の連携と婦人の教養を高め、家庭教育の振興、家庭生活の改善に寄与したいということから、府県の連合体を単位とした「大日本聯合婦人会」を組織した。
 満洲事変後、婦人団体も戦争遂行という国の方針によって統制され、各町村に支部や分会を持つ大日本国防婦人会が組織された。
 本町においても、昭和一二年に各旧町村単位に組織された。第二次世界大戦にはいってからは出征軍人の見送り、遺家族の慰安や手伝い、慰問袋の発送などの活動を行った。
 服装は、白エプロンに白地に黒で「大日本国防婦人会○○支部」と書いたたすきをかけたものであった。
 家庭を持つ主婦は全員が会員となり、防火、防空訓練、本土決戦を目前に控えるようになって竹槍訓練などの軍事訓練にまで発展し、教養団体としての姿は全く影をひそめたのである。
 「ほしがりません勝つまでは」の合ことばもこのころのものであり、婦人たちは人手不足を補うために、木材搬出や松根油取りなどの労働にも従事した。このころになるとエプロン姿は具合が悪く、手持ちのものを活用した上っ張りをつくり、これを着用し、服には五㌢角の白布に氏名を書き、中央に日の丸をあらわしたマークをつけていた。下衣のもんぺは労働に応じて考案されたものであり、今日も労働の際には愛用されている。
 このように、国の決戦体制のもとに教養面の教育活動はほとんど停止されるという事態にまで進展したのである。