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久万町誌

1 青年団

 昭和一二年、国民精神総動員令に基づく運動が強力に展開され、日本精神の高揚を徹底し、国策遂行の思想的基盤を確立した。隣組の組織体制を強化し、防火演習、勤労奉仕、出征兵士の送別など戦争完遂ヘ一億一心の精神か高揚された。
 明治の末期から大正にかけて、処女会の結成がなされていたが、昭和一〇年ごろ男子のに青年団と合併した。
 下畑野川青年団の会談録によると、「昭和一〇年六月一四日、下畑野川青年・処女連合問題は今より四か月前某君によって発言せられてから十数回の総会を開き、協議を重ねた。愛国愛村の雄叫びはついに三〇余名を動かし、ここに処女会と合併を決議します」と記されている。
 昭和一一年二月七日の総会記録には、「……北風がすき間からようしゃなく吹き込む。火の気の全くない会館内ではあったが(中略)……三〇〇〇年の歴史を有する大和魂の持主たる若者の息は凛として会場内にみなぎりわたっていた。
 意見発表では、燃ゆるが如き郷土愛、両眼からはあつい涙さえうかべて現下の日本の外交、内政、思想問題を論じた。これに対して我等青年の覚悟を叫び聞く者をして感動し勇躍せざる者なし。……(以下略)……」とあり、また「今日は処女一名の出席をみたのみである。しかし出席しない処女をうらむ筈はない。自分たちの真剣な努力がまだ足りないのだ。我等はもっともっと誠の人間になるべく修養しなくてはならない」とある。
 同一二年五月五日の記録には、「活動写真を行い、利益金の内五円を国防献金として海南新聞に託す」とある。
 以上の記録から当時の青年たちの心構えを知ることができる。
 出征兵士の家庭に勤労奉仕、遺家族慰安会、廃品集め、慰問品送り、事業収入による国防献金などが青年団員の手によって行われていた。