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久万町誌

1 沿 革

 明治維新は封建社会の打破と近代日本誕生の契機であるが、貧農・貧民など混乱による多くの窮乏者が発生した。そのため、応急救助の措置が定められた。明治四年の棄児育米給与方、これについで明治七年に定められた恤救規則は、昭和六年の救護法となるまで、一般貧民救済の唯一の国家法となった。
 国の行政機関も大正六年、内務省に救護課が設立され、のちに杜会課と改称され、やがて社会局に昇格した。今日の民生委員制度の前身となった方面委員制度が生まれたのもこのころで、岡山県では同年済世顧問制度を設けた。
 このころより昭和初期にかけて各都道府県では、種々の名称をつけて委員制度を創設し、貧民の救済、救護活助に当ってきた。
 愛媛県では、大正一三年一一月九日訓令第三七号で愛媛県方面委員設設規程を定めた。方面委員は名誉職として、調査指導保護、救済、福利、教化、融和をその職務と規定している。
 その後昭和二年、この規程を改正し委員一二五名を市町村長の補助機関として選任した。久万町でも
  高 岡 貞一郎   (久万町大字久万町)
  八 木 菊次郎   (久万町大字上野尻)
  宇都宮 音 吉   (久万町大字久万町)
  高 井 寛 和   (久万町大字菅 生)
  正 岡 真 吾   (久万町大字久万町)
の五氏が方面委員として初めて愛媛県より委嘱された。
 この方面委員制度は、昭和一一年「方面委員令」が制定され全国的なものとなった。
 さらに、「民生委員令」(昭和二一年一〇月一日)が公布され方面委員は民生委員と改称された。
 児童福祉法(昭和二一年一二月一日)が制定されてからは、児童委員も兼ねることとなり、その名称も民生児童委員となった。昭和二五年の法律改正によって、生活保護法では、市町村長の補助機関であった民生委員が、実施の協力機関としてその性格を大きく変えることになり、また老人福祉法(昭和三八年七月一一日)の制定にあたっては、民生委員が同法の協力機関となった。
 昭和四二年一一年八日には、久万町の過去における社会福祉活動の反省と、住民総参加による今後の福祉活動の推進をはかるために指導者三〇〇名が集まり民生委員制度創設五〇周年記念第一回福祉大会が久万小学校講堂で盛大に行われた。
 終戦を契機として、わが国の社会情勢は大きく移り変わった。民主憲法の制度を基として国の社会福祉、社会保障施策が強化され、さらに住民の要求と相まって、つぎつぎと関係法が施行されることになった。久万町でも民生児童委員協議会、社会福祉協議会が設置され、いわゆる、住民のための公私にわたる社会福祉事業が熱心に行われた。
 さらに最近の社会・経済の変化に伴い複雑多岐な福祉のニーズに対応するため、従来の生活保護を中心とした低所得者層の福祉から所得の多少にかかわらず、身体障害者・高齢者・精神薄弱者・児童・母子寡婦等身体的・精神的にハンディキャップをもつ人々の福祉の増進を図ることになった。したがって民生委員の役割も、関係機関への協力活動を始め、地域の要介護者の実態調査の把握、援助活動、心配ごと相談等個々の「なやみごと」などに対する適切な助言と援助を与えるものとして、ますます重要な役割を果たすことになった。
 昭和六一年一二月一日、全国いっせいに民生児童委員の改選が行われた。久万町でも二八名の委員が改選され、九名の婦人委員が新しく誕生し、推せんされ、厚生大臣より委嘱を受けた。
 昭和六一年一二月一日、改選後の久万町民生委員・児童委員は、次のとおりである。

久万町民生委員、児童委員名簿と担当地区

久万町民生委員、児童委員名簿と担当地区