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久万町誌

2 民間診療施設(開業医)

 藤井医院 久万地区における医師は、藩政時代に二名いたことが記録にのこっているのみである。
 現代医学を修得した藤井文郁は明治一七年、医学校を卒業と同時に旧、宝映劇の裏通り(明治二五年新国道開通までの本通)で開業、大正一○年死亡するまで、久万町はもちろん、上浮穴郡内の医療に努めた。
 竹村医院 明治三六年、福井町で開業した。診療科目は内科、小児科を主としており、看護婦を最初に置いた医師である。院長の竹村延次郎は、家業はもちろん政治にも熱心であった。
 大野医院 大野勘蔵は、福井町の川向こうで大正五年開業した。おもに、産婦人科・内科を診療し、昭和三〇年ごろまで診療を続けた。
 宇都宮医院 院長宇都宮音吉は、大正五年福井町に開業した。かれは、主に外科・皮膚科を専門とし、明神尋常高等小学校・久万尋常高等小学校・久万中学校・上浮穴高等学校等の校医として四二年間も奉職した。
 その他、地区別開業医師名は次のとおりである。 
    久 万 地 区 
   氏   名   開業地   営 業 年 月 日
  森 岡 成 一  久万町   大正一〇・ 五・一四
                  〃 一〇・ 七・三一
  田 村 信 喜  久万町   大正一二・ 六・ 一
                  〃 一四・ 二・二八
  永 井 保三郎  久万町   昭和 二・ 二・二八
                 昭和 二・ 三・ 八
    川 瀬 地 区
  平 田 伊 典  直  瀬  大正 五・ 九
                 大正一二・一二・一六 
  中 瀬 冶 三  下畑野川   不 明
                   〃
  岡 林 春 善  下畑野川  大正一〇・ 七・二二
                 昭和 四・ 八
  山 本 鹿 弥  直  瀬  昭和一二・ 四・ 一
                  不 明
  井 上   廣  直  瀬  昭和二二・ 八・ 九
                  不 明      
  山 本 雅 文  直  瀬  昭和二六・ 九・ 一
                  不 明   
    父 二 峰 地 区
  中 尾 慶 治  二  名  昭和 九
  大 妻 茂 喜  露  峰  昭和一二・ 四・ 一
  相 原 滋 鑑  二  名  昭和二二・ 三・二一 
                 昭和二五・ 一・ 八
  大 野   賀  露  峰  昭和二四・ 三・ 三
  小 林 英 子  露  峰  昭和 二・ 五・一二
                 昭和二九・一二・三一
   宇都宮病院
 日本製鉄広畑製鉄所病院副院長の要職にあった宇都宮利雄を、久万厚生病院設置と同時に院長に迎えた。院長は、本籍西明神の出身であったので、町民との折り合いもよく、施設や設備の充実もスムーズに行われ、病院運営の基礎が充実した。昭和二六年退職し、久万町福井町に個人病院を建設した。その後、次々と設備を充実し、郡内最高の私立病院として名実ともにその名をあげた。
  一、開  業  昭和二六年一二月
  一、診療科目  内科・小児科・外科・産婦人科
  一、設  備  レントゲン装置、断層撮影装置 心電計 手術室
          病床数  四〇床
  一、医  師        四名
    従業員        四〇名
 院長宇都宮利雄は、当時将来の抱負について次のように語っている。
   目下上浮穴郡の医療機関としては、三病院と一二の診療所か数えられるが、その多くは各町村の中心部に設置されている。広大な面積を持つ当郡としてはいまだに無医地区とみなされる数か所のへき地があり、そこに居住の方々は大変な不便を感じられている。
   しかし、昭和二二年七月、久万町立病院が設置されるまでは、単なる盲腸炎でも松山の医療機関に依存しなければならなかった二〇年前に比べれば、目下、郡内には四か所に手術室が開設され、どんどん開腹手術が行われている現状であって、今さらながら今昔の感にたえないものがある。しかしながら脳、心臓、胸部外科、あるいは精神科、眼科、耳鼻科等の特殊な科目の設置がまだ充実していないのは残念である。これは今後の大きな課題である。
   その上、これらの医療機関に従事されている医師の方々の顔ぶれをみると、その大部分は他郷の人々である。
   開設者は苦心惨憺、あらゆる手をつくしてこの入手に努力し、その経営に任じている次第であるが、辞令一本で配置される官公吏の諸公とは異なり、全くの自由人である医師の獲得は、文化程度の低い交通不便な当地区としては並たいていの努力では至難の問題で、将来まことに暗澹たるものかある。
   何としても当地区より多数の医師が養成されて、適所に配置され、郷土愛に燃えた人間関係のもとで、診療に没頭できるような育英対策が計画されることを望む次第である。かくてこそ、皆保険下における郡内の各位は、広く開発された今日の医学的恩恵を各地区において手軽く、手早く満喫でき、健康で明朗、しかも、文化的、経済的な生活を享受することができると思うのである。
   西本医院
 院長西本忠治は昭和五年生まれの医学博士で、昭和四○年一〇月、新国道に新築開業した。
 診療科目は、外科・内科・小児科・耳鼻科と一人で多彩な科目を診療し、必要に応じては入院もできるようになっている。一方、岡山医大の講師を勤めるかたわら、多くの著書を出している。
  一、診療科目  外科・内科・小児科・耳鼻科
  一、設備施設  レントゲン装置 心電計 眼底カメラ 胃カメラ
          超短波装置等
          病 床 数  一九
          医 師    一名
          従業員    一〇名
   山縣歯科医院
 院長の山縣一寛は、明治二九年九月二五日生まれで、昭和一一年三月に開業し、久万町四三一番地(住安町下)で診療を続けていた。昭和三九年ころまでは、川瀬・面河方面へも週一回ずつ出張診療をしていた。なお、明神小学校をはじめ九校の学校医として、長年学童の口腔検診、並びに口腔衛生につとめた。
   篠崎歯科医院
 院長の篠崎寅雄は、明治四三年一〇月三一日生まれで、昭和二四年、福井町本通で開業していたが、その後、現在地(久万町二四四番地)に新築し移転した。久万小・中学校の校医として児童、生徒の口腔衛生に力をつくした。
   小野歯科医院
 院長小野正明は、大正一四年七月一〇日生まれで、昭和二九年に野尻で開業していた。その後、現在地(久万町二七番地大谷橋)に新築移転して開業し、上浮穴高等学校校医として高校生の口腔検診、並びに口腔衛生に力を注いだ。その後砥部町で開業した。
   藤井歯科医院
 院長藤井玲は、昭和二七・八年ごろまで久万町桂町で営業していた。その後、東京へ移ったが病気のため死亡した。
 その他、久万町で最も古い歯科医院に「そやま歯科医院」というのがあったが、開業年月日などは全くわからない。また、田窪歯科医は、第二次世界大戦中一時疎開して桂町で営業していたが、現在松山市二番町で開業している。同じく戦時中には野尻に土居歯科医がいた。
 現在、久万町内の歯科は町立病院の外、下畑野川に畑野川歯科診療所、久万町内に、わたなべ歯科・高橋歯科医院が相次いで開院され、町民の歯科治療も大幅に改善されることになった。