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久万町誌

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 明治維新当時の租税制度は、おおむね徳川幕府時代の制度を承継しており、地租、小物成、課役の三種からなっていた。
 小物成というのは後年の営業税、雑種税の前身であり、その種類は一五〇〇余にのぼっていたといわれる。課役というのは労務の提供のことである。
 この当時は、まだ地方自治体の観念もはっきりせず、国税、地方税の区分も判然としていなかったが、明治八年に太政官布告をもって租税が国税と府県税に分けられた。
 なお、この段階では、まだ府県と市町村の財政ははっきりと区分されていなかったが、明治一一年に地方税規則が発布されて地方税が設けられるとともに、府県財政と区市町村財政が分離された。
 地方税の種類としては、地租附加税、営業税、雑種税及び戸数割の四種類が設けられたほか、地方税規則で、地方税をもって支弁すべき費用が限定列挙され、会計年度は七月から翌年六月に定められていた。
 区町村の税については特に種類や制限は設けられず、地方税規則で
「各町村限及区限ノ入費ハ其区域内人民ノ協議ニ任セ地方税ヲ以テ支弁スルノ限ニ在ラス」と規定しており、区町村の協議によって、地価割、戸数割、歩合金、間口割など、それぞれの地方の慣習に従って協議費を定めてさしつかえないこととされていた。
 明治二一年には市制町村制が制定され、市町村は地方公共団体として独立の地位が与えられることとなった。これに伴い市町村に課税権が与えられ、その税目は、国税、府県税にかかる附加税及び直接、間接の特別税と定められた。
 明治二三年には府県制が制定され、従前から府県のみが課税していた地方税は、その名称を府県税と改めた。
 明治二九年には日清戦争後の国費の激増に対処するため営業税法が制定され、国税営業税として四種目が新設された。新設の国税営業税に対しては一〇分の二以内の附加税を課すことが認められ、また、醤油税、煙草税などが国税から府県税に委譲された。
 大正一五年には地方税制の大整理が行われたが、その理由として、国税、地方税を通じ国民の負担が増大したため、地方に適当な課税客体を与える必要があったことから①府県税として家屋税が創設され市町村はこれに附加税を賦課することになったこと②府県税である戸数割が廃止され、市町村税としての戸数割が創設されたこと等があげられる。
 更に昭和一五年には中央、地方を通ずる税制の大改正が行われた。
 その理由は、昭和に入り地方財政は歳出の拡大要因が強いにもかかわらず経済不況のため税収入が伸びず、このため地方財政の窮迫が問題となっていた。特に、資本主義の進展に伴って都市と農村との経済力に格差が生じ、農山漁村に所在する地方団体の困窮ははなはだしいものであった。
 このような状況から税源配分の問題として地租及び営業収益税の地方委譲が論議の的になっていた。
 ただ、いずれにせよ地域によって経済力に格差がある以上、単に国税の税源を地方税に委譲するだけでは地方財政の問題は解消され得ない訳であり、地方財政を調整するための交付金制度を設けることが必要であるとされた。
 そして、昭和一一年には応急的に臨時町村財政補給金が交付され、翌年度からは臨時地方財政補給金として制度化されたが、このような措置だけでは地方財政の困窮を救うことはできないため税制の大改正が行われたのである。
 主な改正点は①収益税である地租、家屋税及び営業税をあげて地方の財源としたこと、②市町村税戸数割を廃止し、市町村民税を新設したこと、③目的税制度を整備拡充したこと等である。
 あわせて税源の地域的偏在を財政的に調整するために地方分与税が創設されたのである。