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久万町誌

二 維新当初の選挙

 明治維新は政治の上に大変革をもたらし、諸外国と交際を始めたので、外国の風習も次々とはいってきた。一般国民に第一に許されたものが住居の自由、耕作の自由、土地の売買の自由であり、地租の改正等もあった。
 明治二年には全国の関所を廃して転居や旅行も自由にできるようになった。それまでは住居の変更など思いもよらないことであり、縁組などや他村に嫁入りする場合でも寺の住職の添書きを必要としたし、金刀比羅参りなどの旅行にも庄屋の許可を得てその認証(往来手形)を持っていなくてはならなかった。
 次に、耕作の自由では、これまでは田には必ず稲を、畑には必ず雑穀を作らねばならなかったが、明治四年に田畑勝手作りの布令によって、田畑を宅地に変えることもでき、また換金作物として畑に桑や茶を植えることもできるようになった。
 寛永二〇年(一六四三)以来禁止されていた土地の売買も許され農民も土地を売って他の職業に転業することが可能となってきた。同年八月には職業の自由も認められたので、久万の百姓も百姓をやめ町に出て商人になったり、志を立てて東京や松山方面へ出ていった例もたくさんある。
 地租の改革は村にとって大変革であった。それまでの納税は、現物の米で納めていたので、運搬や、相場の変動などで不便であった。そこで貨幣によって徴収されることになった。維新までは大名の土地を預って耕作をしていた農民が、そのままその土地の所有権を認められ、生産物を貨幣に換えて税金を納めねばならなくなったわけである。百姓は、これまでは自分で作った作物の米を出せばほとんど事がたりていたのに、改正では貨幣でなければならず、当時は税金も高く、その上換金も下手で商人に買いたたかれたり売れなかったりした。このように換金の苦労か多いため土地を安く売り払う者や、酒を買って持参して土地をただで取ってもらったりした例も多い。
 このようにせっかく自分のものとなった土地も売り払って小作人となり、金持ちや目さきのきく一部の利口者は、土地を集めて地主となり、そのまま終戦の時(昭和二〇年)まで、地主と小作人の関係が続いたのである。
 明治五年には全国に戸籍を作ることになり、武士と一部の庄屋のみに許されていた苗字を全住民が付けることになった。そこで、百姓・町人は今まで表面に出せず、系図や羽織、提灯の紋所などによって残して来た姓を付ける者が多かった。またその紋所によって家系の判断をして姓をつけた者もいた。中には三〇〇年もの長い間使わなかった姓であったために、どこの分家かわからなくなった家も多く、戸籍作成に当たっては、戸長や神主・住職などにつけてもらったり、山の西側にあるから「西山」とか山の上で「山上」、森の下にあるから「森之元」と言ったような付け方をしたとも言われる。
 明治四年には、それまで理由さえ立てば武上の「切捨て御免」の習があったが、それも禁止され、明治九年には帯刀も禁じられたので、士、農、工、商の別もなくなり、これまで実質上最下位であった農民も平等の地位になったのであった。