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久万町誌

1 久万町役場

 藩政時代には各村(現在の大字部落)に庄屋がいて、それぞれの村の政治を行っていた。その政治を行う場所として、庄屋の自宅を主に当てていた。しかし、その村に庄屋としての適任者がいないため、隣村の庄屋が「預かり庄屋」となってその村の政治をとっていた例も多く見られたから、必ずしも庄屋の自宅のみであったとはいえない。
 庄屋が村政を行う場所を「小家」と呼んでいた。この「小家」は、後の役場の前身である。
 明治維新後、庄屋の制度がなくなり、庄屋の呼び名は里正・組頭・区長・戸長とたびたび変わったが、「小家」はそのままの呼び名で呼ばれていた。すなわち、久万町村の「小家」は、久万町村札の辻にあって、久万町村及び野尻村の村政を行っていたわけであるが、これが明治一一年まで続いたのである。
 同年に久万町村の「小家」は、「久万町村外二か村戸長役場」と改められた。これと同時に、明神・川瀬・父二峰にも「戸長役場」ができた。この戸長役場は、各村(現在の大字部落)にあったわけではなく、いろいろな条件によって異なっていた。つまり、一村又は二・三村に戸長をひとり置き、戸長役場を設けるという状態であった。例をあげると、東明神村戸長役場・西明神村外一か村戸長役場・菅生村戸長役場・久万町村外二か村戸長役場などであった。
 久万町村礼の辻(本町より大宝寺へ行く右かどの家、久万町役場移転図①)の小家は、明治一一年に「久万町村外二か村戸長役場」となって、二代の戸長が村政を担当した。更に、明治二二年には町村制がしかれたために「久万町村外二か村戸長役場」は、「久万町村役場」とその名称を変えた。その後、明治三四年に久万町村は町制をしき、「久万町村役場」を「久万町役場」に変更した。
 久万町札の辻にあった役場は、その後、福井町(現山口金物店の所・久万町役場移転図②)に移り、日露戦争の時に更に移転(宇都宮音吉医院の所・久万町役場移転図③)した。この移転によってはじめて久万町役場は、これまでの間借りの不便さから解放され、一軒の独立した役場となった。しかし、これも借家であって、久万町の所有ではなかったが、久万町役場としての体制は整ったわけである。この時は、第二代町長船田源松の時代で、町役場の陣容は、町長・助役・収入役・書記二名・使丁二名の計七名であった。
 このような経過をたどって独立家屋となった久万町役場も、近所の火災によってやむなく引っ越しをしなければならなくなった。そこで、ちょうど手ごろな久万小学校へ移転した。二階建ての本館(昭和四〇年改築のため除去)の一階を役場とし、二階を役場の会議室兼学校の講堂として使用していた。再び間借りになったわけで、不便をしのばなければならなかった。
 第三代町長高橋精一郎は、前町長船田源松の意志を継ぎ、間借りや借家による不便を取り除くために、久万町自体の所有である久万町役場の建設に着手した。将来のことを考慮に入れて住安町(久万町役場移転図⑤)に、木造二階建て総面積一九五坪の役場を建築しここに移転した。すなわち、昭和一七年より二九年まで上浮穴地方事務所、三〇年より四一年九月(現在の県久万総合庁舎ができるまで)まで愛媛県久万庁舎として使用された建物である。
 町自体の所有として面目を一新した久万町役場は、大正一五年、郡役所が廃止されたのを機会にその建て物を譲り受け、ここ(久万町役場移転図⑥)に移った。久万町役場は、昭和三七年、現久万町庁舎ができるまでの三六年間ここにあった。郡役所の建物であった久万町役場は、実に九代の町長によって運営され、町政の要となってその機能をじゅうぶん果たしていった。
 昭和三四年に久万町は川瀬村・父二峰村と合併し、新しく久万町として発足した。そのため大世帯となったこと、したがって役場が非常に狭くなったこと、郡役所時代からの建物であったため老朽化していたこと役場の位置にも問題があったことなどから、久万町庁舎の移転建築が問題となり、早急に解決しなければならなくなった。
 そこで、昭和三六年に大字久万町カチヤシキ二一○番地を敷地として六三二二平方㍍の土地を購入し、造成して、鉄筋コンクリートニ階建ての久万町庁舎を新築した。なお、このための財源として、上畑野川遅越の官有林を一億三〇〇〇万円で払下げをうけ、これを売って得た利益金を当てた。
 久万町庁舎建築の概要と、久万町役場の移転の概況は、左表と図のとおりである。

久万町庁舎建設の概要

久万町庁舎建設の概要


久万町役場移転図

久万町役場移転図

図表内「法年寺」とあるのは「法然寺」の誤りである。

久万町庁舎平面図

久万町庁舎平面図