データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

5 NTT久万営業所

 明治二五年、久万郵便局に電信事務が開始され、大正八年には電話通信事務も行われるようになった。同九年に初めて電話加入者三名を得て、交換手一名がそれに当たった。
 経済の発展と文化の向上にともない、電報電話業務も増大の一途をたどっていった。ついに、昭和二七年二月一日、久万町郵便局より分離し、久万町火矢の元四五の四に木造平屋建て七九坪の新局が建てられ、久万電報電話局として発足した。
 当時は、業務長、施設長が置かれ、職員二〇名、磁石式交換台市内二・市外三・加入者一二五・電信回線一で業務が開始された。
 同年一一月には、機構改革があって、局長制がとられるとともに、業務・施設が課となり、更に庶務課が増設されるにいたった。
 同三四年には、父二峰局、三五年には川瀬局市外通話回線が即時区間として集中合併、三七年には、直瀬局市外通話回線が即時区間となった。
 また、独立当時の電信回線久万ー松山間の一回線から二八年には電話線も五回線となり、やがてダイヤル三・普通一一の一四回線になった。電話加入者も三五年には、四○○台を突破し急速な増加をみた。これにともなって、交換台も開局当時は磁石式で市内二席・市外三席であったが、やがて市内も複式となった。市外も五○型となり三八年には、五一N八〇磁石式複式六座席となった。なお四二年には、CXダイヤル発信装置も新設、松山市外局サービスインとともに、新装置に切り替えられた。
 このように、当局は、上浮穴郡の電信電話を中心としてめざましい発展を遂げてきた。そこで、四一年には久万町カチヤシキ一九〇の一に敷地三三七・三二八平方メートルを買収し、四三年四月に新局舎の建設に着工、四四年三月の竣工に向けて工事が進められた。
 昭和四三年末久万町電話加入者数(七〇五台)昭和四三年一一月久万局新局舎が竣工(久万町カチヤシキ一九〇の一)同時に、自動化設備工事を実施し、昭和四四年三月サービスを開始した。また川瀬交換所を開設し、全国即時網に編入し、昭和四八年一一月美川、面河交換局開始(自動化)東川交換所開設(自動化)した。
 つづいて、昭和四九年一一月柳谷交換局開設(自動化)五〇年二月小田交換局開設(自動化)五一年七月直瀬交換所開設に伴い久万管内自動化が完了した。
 五三年一二月、父二峰地区地集一般化のため、父二峰交換所開設、五四年一〇月西谷地区地集一般化のため、西谷交換所開設し、所謂農村集団自動電話の一般化が着々と進んだ。
 五五年六月夜間等等電話番号案内(一〇四)、一〇〇番通話等が松山へ集約化し、五五年一一月には、美川、日野浦、東川の地集が一般化し、五八年三月久万局に電子交換機(D二〇ーT○S)が設備され、市外発信交換機として、サービスを開始し、現在に至っている。
 六〇年四月、電々改革三法が成立し、日本電信電話公社から日本電信電話株式会社に移行し、昭和六二年九月には、昭和ニ七年以来つづいていた交換業務を、松山電話局へ移行した。
 六三年一一月四国のトップを切って久万電報電話局を松山ブロックに集約し、昭和五二年当時八一名の社員が、所長以下七名(六四年三月退職予定者二名を含む)となった。(現在は五名)
 六三年九月、加入数七九六五。