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久万町誌

2 納涼まつり

 納涼まつりの始まりは、昭和三四年八月一○日に、新しい久万町が誕生した祝賀で花火大会と、県讐のブラスバンドの演奏会を開いたことにある。花火大会が恒例化してくると、それだけではどうも芸がなさ過ぎるということで、盆踊りを取り入れた。四八年になると阿波おどりをとり入れようということになり、徳島から指導者を招いて、踊りと共に鳴り物の指導も受けた。踊り子も職場ごとの連や各種団体の連ができ、商店街の七夕笹の下を練り踊るさまは、豪勢なものであった。商店街は各町内会ごとに、工夫を凝らした作り物があり、各戸の軒下になびく笹飾りは、久万町の一大風物詩の観を呈した。
 五九年には、林業の町にふさわしいものを工夫しようと、御用木のかき比べが行われるようになった。御用木とは、今から三〇〇年ほどの昔、松山城の築城にあたり、久万からその用材を調達したという。その故事にちなみ、樹齢五○年の杉丸太、長さ六㍍のものを、一チーム一一名の荒子が肩にかついで町内を駆けぬけるのである。これに使われる用材を御用木という。沿道では清めの水を用意して、用材に掛ける。平成元年にはチビッコ達のオープン参加も含めて三九チームが参加した。もちろん町内だけでなく、郡内はもとより、松山市の方からの参加もある。
 この御用木まつりと共に、踊りもよその物まねや借物でないものにしようと、新しく久万音頭が創作された。久万音頭の踊りは簡単な振り付けなのだが、平成元年の今年は、テンポを早めたり、サンバ風にアレンジした連もみられるようになってきた。
 六〇年からは、三坂馬子唄の全国大会も加わった。三坂馬子唄というのは、久万郷の産物が一度久万に集められ、ここから馬の背で松山城下へと運ばれた。帰りには生活物資を運んで帰る。その道中で馬子が歌ったのが三坂馬子唄である。町内外から多くの民謡愛好家が集まり、盛況である。
 花火に久万おどり、御用木に三坂馬子唄と、八月の第一土、日は久万町あげての盛大なまつりとなっている。町づくりに取り組む町民の意気込みを表す一大イベントである。