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久万町誌

一 概 要

 国定公園面河渓が、霊峰石鎚山の庭園のようなもので、町内に点在する幾多の観光資源もまた、面河渓の前庭のようなものである。また、郡内に散在する観光施設、四国カルストをはじめ八釜の歐穴群、美川スキー場、小田深山の渓流等々の開発が、久万町の今後の観光開発にも大きな影響力をもっている。このことは、郡内のどこの町村についても同じことがいえる。こうした事情をふまえて、昭和三〇年に上浮穴郡全域の観光開発を有機的に推進していこうと「大面河観光協会」が発足し、事務局を町村長会内に置いた。
 豊かな自然と夏の涼しさから、久万町は「伊予の軽井沢」といわれるが、観光的には四国八八か寺の巡拝コースが主で、いわば通過型の観光であった。昭和三〇年代後半ごろから観光も様変わりし、滞在型のレジャー施設への要望が高くなり、四〇年代に入るとそうした施設の建設が急増しはじめ、それに伴って民宿もまた増加の傾向を示してきた。また、農林業のあり方も商業ベースにのる方向に向かっていった。
 観光産業の発展はまず道路網である。国道三三号線は、昭和二七年一二月、一級国道に昇格し、数年後には全面的な改修工事が始められた。三九年四月、落合燧道が、四一年二月、久万町のバイパス開通とハイスピードで工事が進み、四二年八月には改修工事が完了した。国鉄は急行バスを運行するようになり、松山、高知間が三時間半に短縮された。
 大野好隆が終戦後間もない昭和二二年に提唱した「峠御堂隧道」は、実現の方向に向かった。大野が初めて峠御堂隧道を提唱した当時は、「川瀬地域と久万を結ぶ最短距離として大事なものであり、産業・文化の発展に欠くことのできないもの」として唱えたのであった。が、時いまだ熟せず、単なる夢物語として、町民の冷笑をあびた。彼亡きあと、一〇年近くなった昭和三六年九月一三日に、峠御堂線の起工式が行われた。四六年一一月には、いよいよ峠御堂隧道の起工式が行われ、四九年一一月一二日、峠御道線の開通式が行われた。この路線の開通により、古岩屋の開発が、にわかに脚光を浴びることとなった。
 国道三三号線の改修は、三坂峠を観光地としたと同じように、峠御堂線の開通は、名勝地として国の指定を受けていた(昭和一九年一一月七日指定)古岩屋を観光開発へと、大きく進展させた。
 道路網が整備されるに伴って、町の基幹産業である農林業も大きく様変わりをしていった。三五年から久万郷の開田事業が検討されていたが、四〇年になると、いよいよ東明神地域の圃場整備事業が一〇月から始められ、四二年には畑野川地域、四四年には上直瀬地域と、いずれも二か年の継続事業で行われた。また、林業の町として良材を産出している久万町に、木材市場ができ、その落成を祝う初市が四四年一〇月一日に行われた。その後、辻に営林署の直営市場と落合や野尻にも開設され、現在町内に四か所の木材市場があるまでになった。更に平成二年には、県の林業試験場が大字菅生、宮ノ前に開設され、林業の町にふさわしい施設と、町内外からあつい視線が注がれている。
 標高七二〇㍍の三坂峠が、中央からの政治、経済、文化の移入に、大きな障碍となっており、伊予の北海道というあまりありがたくない異名で呼ばれてきた。標高五〇〇㍍の久万町は、平坦地の気温に比べると、五~一〇度の差があり、雨量も多い。冬の寒気は峻烈をきわめ、降雪は交通機関を麻痺させることもしばしばである。夏の冷気と冬の積雪は、自然の恵みであり、夏の避暑に冬のスキーにと、これまた大きな観光資源でもある。
 こうした景観、概要の中から、更に景勝地や観光施設等に触れておく。