データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

一 合併前の商工業の概要

 久万町の商工業は、四国霊場四四番札所大宝寺の門前町、また松山から高知に至る土佐街道の宿場町として発展し、しだいに上浮穴郡の政治、文化の中心地として人々が集まり栄えた。あわせて、明治初期から井部栄範らの造林、植林の結果自然条件にも恵まれ林業の町として脚光を浴びるようになり、明治三〇年ごろには、既に現在に近い商店街が形成されていた。
 その繁栄は、第二次世界大戦ごろまで続いていたが、戦争であらゆる物資が軍事用として供給されるようになった結果、食料品・衣料品等の統制、配給制が行われ、当町の商工業も火の消えたような状態であった。しかし戦後、経済復興と呼ぶにふさわしい動きは、製材業から始まった。
 戦争で焼失した都市での住宅建設は急務であり、昭和二五年六月に起った朝鮮戦争が呼び水となったと言われるように木材需要は大幅に増大し活況を呈するようになり、このころから日本経済は急ピッチで回復に向かっていった。
 当時、久万町には、従業員五人~二〇人程度の製材所一二工場が操業していた。
 昭和三〇年代に入ると、生活様式の一大変革で戦前にみられなかった電化製品や木炭に代るプロパンガス等の普及で、庶民生活が一変した。
 そして昭和三五年の「国民所得倍増計画」の機運等により財政規模が大型化し、公共投資ー社会資本の形成が活発になされるようになってきた。

明治43年末久万町業種別事業者数

明治43年末久万町業種別事業者数


所業別戸数

所業別戸数