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久万町誌

4 小家畜

 豚  戦前には豚を見ることがめずらしく、豚は、普通の農家では飼育できないくらいに考えていたが、昭和三〇年ごろから養豚経営をこころみる者が出はじめ、久万地区で四〇頭ほどの飼育がみられた。その後、肉牛の不足とあいまって、豚相場がよく、豚は、短期飼育ができるところから多頭飼育を計画し、三五年には一〇〇頭にあまる数となり、急激に増加しはじめた。しかし、豚の相場は変動が多く、三九年の二六七頭を頂点に減少しはじめた。
 数名ではあったが養豚を企業的経営にと考え、資本を投入して専業としての養豚を試みたが無理があり、三戸ほどの養豚業者をのぞいては、自家飼料でまかなえる一頭飼育が多くなっている。それでも、四二年度調査では九八頭の飼育がある。
 緬 羊  戦後、衣類のとぼしかったころ、「緬羊一頭一年飼育すれば、その毛で背広が一着できる」とのキャッチフレーズで奨励する人があって、昭和二八年には川瀬地区に一〇頭あまり、久万地区に数頭、その後増加の一途をたどり、三七年には、一五六頭になったが、羊毛品が化学製品におされ相場下落で激減した。そして四二年の調査では一頭も飼育されていなかった。
 山 羊  戦前までは、出生児に母乳が不足するのを補給するために飼育されていた。必要になれば離乳児を持つ家の山羊をゆずりうけては利用していたので、あまり数の増減はなく終戦をむかえた。
 戦後、間もなく、食生活改善の一つとしてミルク給食が提唱され、山羊の飼育がさけばれたが、全戸飼青までには至らず、幼児又は病弱者を持つ家の自家用として飼育していたにすぎない。
 昭和二八年約二〇戸に一頭の割合で飼育されているが、その後においてもあまり増減はない。
 鶏  蛋白の供給源として古くから農家には飼養されていたが、自家用としての域を出ず、普通、二~三羽から六~七羽の放し飼いで、別名を「庭先養鶏」ともいっている。フ化方法は、成鶏に卵をあたためさせて行い、一羽で一〇羽前後をフ化さすことができた。これは各農家で、親鶏さえおればできていたのであるが雑種が多く、産卵率は悪かった。
 農家で鶏のいない家はないが、農家一戸当たりは三羽ぐらいで、一〇羽以上の養鶏農家は五%にたりない。(昭和二五年ごろ)
 昭和三〇年ごろより食改善の普及によって卵の需要が高くなり、久万町での養鶏は立地条件も整っている上に、野菜とトウキビは、品質のよいものが生産されるということで、それを飼料に養鶏熱は急に高まってきた。そして、農家の副業として、なかには専業として考える者も現れ、五〇羽養鶏から一〇〇羽養鶏が畑野川や直瀬で行われた。しかして自家飼料ではまかないきれず、産卵率などは、計画と尖践のちがいを生み、夢の大養鶏熱は数年で消えた。この時白色レグホン、グルモースなどの新種が入った。昭和三〇年、約六〇〇〇羽、三四年には二倍の一万二〇○○羽に増したが、五〇羽以上の養鶏はなくなり、それに変わって二〇羽前後の主婦の「まつぼり養鶏」として残っている。
 うさぎ  うさぎの農業経営に占める役割はうすい。戦時中には毛皮を軍隊に出さなくてはならず、飼育したこともあるが飼育がむずかしく、現在では愛玩用に飼育しているていどである。昭和三〇年で約一八○羽、四○年で一六〇羽とあまり増減はない。
 あひる  昭和二九年の調査で、はじめて久万一〇、父二峰六と出ているくらいである。久万町では、あまり一般化していない。
 これは肉用としてのみ価値のあるものであるが、飼養に池が必要としたのと、あまり美味でないため普及しなかった。
 蜜 蜂  養蜂振興法、ならびに、県蜜蜂転飼条例にもとづく業者は、久万町にはいない。一般には、蜜堂とよぶ飼育箱で地蜜を飼っている程度である。
 これは、岩山や倉庫の軒下などに蜜堂をおいて、春から夏にかけて集めた蜜を初秋に取り、貯蔵しておいて乳児、病人に要いる貴重品の一つであり、古くから行われていた。
 この蜜堂一こは、米一俵として相場がきまっていたから、春蜂のすわかれのある時などは早く見つけ、早く取ろうと争ったものである。蜜堂はどこにでも育つものではなく、風の向き、日当たり、外敵などに対する条件のよいところでなければならないので、地区の中でも育つところは決まっていた。
 昭和三〇年の調査で久万地区三五、川瀬地区二一、父二峰地区二〇、上浮穴郡では三二九の蜜群があったとなっているが、現在は、はっきりしていない。
 県の転飼条例に基づく養蜜は、外から夏にかけ山畑の多い所に移動して養蜂するが、この蜜蜂は、強健で大きく、これがくると和蜂が育たないといわれている。