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久万町誌

2 馬

 ア 駄 場
 歴史の上でも馬の果たした役割は大きく、馬がなくてはならない時代は長かった。
 いつごろから久万町に馬が飼育されだしたかは、記録がないので明らかでないが、元禄四年(一六九一)、「藩より村の庄屋、郷筒等に馬を預けて飼養せしめていた。」と久万山手鑑に記されており、預かった家の名前がのこっている。これが久万町での一番古い記録である。
 この預け馬とは、大名が非常時に備えて豪農や庄屋に飼育させていたもので、このごろ、既に一般農家にも馬は飼育されていたものと推定される。
 それから約五〇年後の寛保年間には表にみるように、多数の馬が飼育されていた。
 この時、既に農家の半数以上が馬を飼育していたようである。
 馬は、時代によって多少のちがいはあるが、交通、運輸、通信のすべての部門にわたって、大きな役割をもっていた。
 馬を使役して職業とする者を「馬方」、又は「駄賃持ち」といった。
 馬が交通運輸の上で大きな役割を果たしたのは、明治の中ごろまでで、三坂新道が開通するまでの時代であった。
 今の旧久万町が宿場町として栄え、川瀬・父二峰はもとより、面河・美川・柳谷で生産された穀類から材木、木炭まで、一度久万町に集積され、そこから三坂を越えて松山に搬出されていたのである。
 久万までの主な馬道としては、上直瀬からは、古池峠と池ノ古峠、下直瀬からは、古岩屋をとおって閻魔堂、どちらも畑野川へ出る道筋である。畑野川からは、峠御堂を越え菅生山へ出るのが本道、その他に中の村を経て野尻へ出る道と、千本峠をこえる道がある。
 二名からは、ヒワダ峠を越えて野尻へ、父の川、露峰は落合へ出て野尻へ、これらはいずれも、けわしい山道であったけれども、幹線馬街道として使用された。
 このほかに父二峰からは、小田郷に出る下坂場峠と真弓峠、直瀬と畑野川は、松山に通ずる道として白猪の峠・井内峠・上林峠などもあるが、今は車道に改修されたか、又は忘れられた山道として、わずかにあとかたを残すのみとなっている。
 当時の馬は現在の馬よりかなり小さく、乃万仔、(またの名を野間馬)と呼ばれ、足はのろいがからだのわりに力が強く、持久力もあって長距離輸送に適していた。
 背丈は四尺八寸(約一・五㍍)が普通で、米なら二俵を一駄として、畑野川と父二峰は一日二往復、直瀬は一往復を馬の一人役としていた。(当時の米一俵は四斗四升で約六六㌔㌘)久万からは、三坂峠を越えて森松又は立花まで送っていた。
 明治八年ごろ(一七七一)になると、馬の数は多くなり、街道は往来がはげしく、馬の交通事故がよく起こり、それをふせぐために、馬の首に鈴をつけ、(実際には、くぐみにつるしていた)対交馬に、チリンチリンと合図しながら、馬子唄など歌って往来していた。これは、明治の終わりごろまで続いた。
 当時の運賃は明らかでないが、久万、松山までの米二俵の送料が、トウキビ一丸(一丸は三斗)が相場とされており、上げ荷の塩とか日用品で約三分の一、合わせてトウキビ四斗分の働きをして、一人前の馬方とされていたようである。そのころ、運賃が全部品物で支払われていた訳ではないが、米の価格が物価の基準であり、トウキビが米の半額とされていたから、トウキビの価格で運賃が決められていたのであろう。
 明治一一年に西明神と入野村で調べた記録によると運賃は左のようになっている。
  一里(約四㌔㍍)を単位として
   人  七貫目を 平地 七銭五厘 山道 一〇銭
   馬  四〇貫を 平地 一〇銭  山道 一六銭
 えびす講(馬頼母子)
 これは、現在の家畜保険制度をつくるきっかけとなったようであるが、お互いの助け合い精神から生まれた小さな互助会である。
 馬の病死、事故死は非常に多く、一度その事故にあうと、自己資金で馬を購入することのできない者が大多数であったので、その人の、その後の生活安定をはかるため考え出された互助会である。この頼母子講は牛馬だけに限らず、分家や新築、災難にあった時など、親せき縁者友人等で行っていたもので、その時に必要な金額と会員数によって、掛金、回数などを決めていた。だいたい、一人一回の掛金を米二斗から一俵程度、回数は年一回から二回、期間は五年くらいから長くても一〇年までには終わるようにしていた。
 この掛金に現物が多かったのは、米麦ならば自家生産物であるから出しやすかったのと、期間が長くかかると物価の変動によって、不公平が生じるのをふせいだことなどがあげられる。掛金は、かならずしも現物とは限っておらず、その年の米の価格で行われることもあった。
 この馬頼母子だけを、「えびす講」、と呼んだのはなぜか、特別な理由も見あたらないが、馬のよい悪いは外見でわかるものではなく、この馬ならよいと思って買った場合でも悪い場合もあり、よいも、悪いも、その人の運しだい(馬は縁起物)として、その人の家に初めて馬がはいる時には、「えびす様のご入来」と喜んだ。
 また、馬に生活のすべてをかけて働いていた者が事故に会い、その馬を失って途方にくれている時、仲間たちが相談し合い、会員を作って新しい馬を買う資金を作ってくれた時、その仲間の顔が、えびすさんに見えたとか、そこから「えびす講」と呼ぶようになったと伝えられる。馬仕事は危険で事故が多いため、新しく馬を求める時には仲間の者が集って、「今度こそ本当のえびすさまが来たから、これでこの家にも福が舞い込むぞ。このえびすさまで難を乗りこえ幸せを運び込め」、とみんなではげまし勇気づけてやった、こういう事などからいつの間にか「えびす講」と呼ばれるようになったようである。
 亡馬区所
 地区のはずれのどこかにかならず一か所か二か所は亡馬区所といって死馬をすてる所があった。現在でもその跡には、馬頭様が祭られているはずであるが、耕地や屋敷等に開拓しているところもあって、石の地蔵は他所へ移動されているところもある。
 亡馬区所とは、死んだ馬、又は、ころした馬を葬る所であるが、馬が事故で足を折ったり、腰が抜けたりすると、手当てのすべがないから、ころす以外に方法がない。ころした馬は売ることも食用にすることもできないからすてることになる。すてるとなると大きい物体であるからしまつにこまり、葬るところを定めていたのである。
 いまでこそ、馬肉、牛肉ともに高価に取り引きされているが、明治の終わりごろまでは食用にすることを知らなかったし、もし、勝手に食ったことが解れば罰せられ、仲間からは同等のあつかいをしてもらえなかった。また、牛馬の肉が動物園等に売れるようになっても、車がないから遠くへ運搬することができなかった。輸送力もでき、肉が売買できるようになっても、病死の牛馬については、警察官立会のもとにすてなければならなかった。このため、亡馬区所の必要は咄和の初めまであった。
 ちあいとり
 これは、いつの時代から行われだしたかは明らかでないが、昭和二五年ごろまでは、年に一回は、牛馬ともに行われたもので、小集落(組)ごとに「血あい駄場」と呼ばれる野原があった。数本の松の木や、栗の木などで作った柱が立てられていて、常時は人の出入りはなく、淋しい所とされていた。だが、血あいの日となると、地域内の牛馬は、全部引き出され、獣医や馬喰の手によって、血あいの他に希望者の去勢や爪切り、交換や売買なども行われる年中行事の一つであった。
 血あいとは、現在の医学からみると何の根拠もないのであるが、黒血を取る。とか、悪血をぬく。といって、牛馬の休内から血をぬくことである。血の量は、その牛馬によってちがうが、だいたい一〇〇㏄程度・方法は、三丘針(通称馬針、平針)という大きな針で、牛馬の舌、背、尻尾などに針を立て血を出し、そのあとに塩をすり込み摩擦などをする。この事によって、食欲が出る。水飲みがよくなる。弱々しかったものが元気になる。狂暴なものはおとなしくなる。人間でいえば、お灸と同じようなもので血液の循環をよくするのに役立つくらいのものであった。「気分八分に効能二分」と現在の獣医さんはいっている。だから現在では、定期的に行う所はほとんどなくなっている。
 牛馬には、外傷を外羅、肉炎を内羅と呼び医薬品のできるまでは、内羅は針(血あい)にたよる他はなく、風ひき、食欲不振、外傷からの化膿など一切の治療を行っており、現在でも、針と塩こぎは、病状に応じて行われている。
 馬 籍 簿
 人間の住民登録と同じで、持ち主が変わった場合は届け出をしなければならなかった。この制度は終戦まで続いた。これは戦役に必要なためで、役場には、飼馬の産地、年齢、毛色、特色、大きさなどがひとめでわかるような馬籍簿があった。
 競 争 馬
 久万町には、競争馬を飼育して職業とする人はいなかったが、趣味として数名の人が飼っていた事実はある。
 草 競 馬
 草競馬が盛況を極めたのは、大正の中期から第二次世界大戦の始まるまでの間であった。終戦後間もなく復活し、三三年ごろまで続いたようであるが馬の減少とともに消えていった。
 町内には、四か所の馬場があった。現在では、耕地やグランドに変わり、昔の面影はどこにも見あたらない。
 明紳地区には大字入野鶴の巣に競馬場があった。現在の農業試験場の試験農園になっているところである。これは明治四四年ごろ、地元の馬持ち有志によってつくられたものである。
 地形は東西に長く、馬走距離二五〇㍍をもつ三角形、中に松林があり、県外からの参加もあって、ひところは鶴の巣競馬の名を広めていた。
 久万地区では、笛ヶ滝公園が長く競馬場として使用されてきた。最初は、池の周囲の土手で行われていたが、そこは危険で本当の競争ができないため奥地の高原を馬場とした。しかし、これは馬場というより馬の鍛練場として使用されたため、競馬場として満足できるものではなかった。昭和二五年、時の久万町商工会が中心となって、その地に新しく競馬場を作ったのである。工費は、一六万五〇〇〇円、町の補助金と有志の寄付金で厩舎から下見場まで造り、金策もさることながら、付属施設まで造る熱の入れようは、当時の競馬に対する人々の関心の深さを物語っている。馬走距離は三二○㍍、卵形の馬場は騎手の技量を必要とした。
 この競馬場造りに熱を入れたのは、馬持ち連中ではなくて商工会であったが、それは、競馬そのものの振興よりも、地方の人々が集まってくることに視点をおき、商工業の発展をねらったことにほかならない。
 畑野川地区では、自然条件を備えた千本ヶ原に約四○○㍍の円形馬場を持ち、馬つなぎ場、観覧席、松林などがあって千本といえぼ郡内外に聞こえた名馬場であった。
 直瀬地区には、大寄競馬場があり、馬走距離約四○○㍍、やや丸形であって、ここが勝負のきめどころとなる直線はない。けれども、柵あり、下見櫓あり、だれが見ても競馬場と一目でわかる政派なものであった。中では、鍛練、馬検、受精なども行われ、牧場とも呼ばれていた。現在その一部は道路となり、昭和三八年ごろに畑と水田になった。
 競馬は、毎年春に開かれ、郡内各地から参加し人気を呼んだ。
 だいたい、競馬は春開かれるものと決まっていたから、百姓仕事は、競馬に始まり秋祭りに終わるといわれたくらいである。
 長い冬から開放され、春に向かって大きく手足をのばす一日であり、この日をさかいに、田畑の植え付け準備にとりかかる一日でもあった。だから、競馬に興味のある者はもとより、女や子供まで、のりまきなどをこしらえて集まり、桜の花は咲かなくても、話に花を咲かせたものである。
 静かな農村で気性が荒いといわれるのは馬方連中、この日は、その馬方連中のお祭りでもあるのだから、自分の馬はどこへやら、酒瓶片手に豪語する者、やがては、喧嘩もはじまってはじめて本番を見たような気分になるとか、「早くやめろ」と仲裁に入りながら「派手に大きくやりたまえ」と、さすがに競馬会、弥次馬の多いことであった。
 これが草競馬のおもしろいところである。多くの人気を集めたが、その雰囲気を知る人も少なくなり、やがて、忘れられていったのである。

1743年の各村別、牛、馬及び農家戸数

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