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久万町誌

3 戦中~戦後

 昭和一二年、支那事変が起こり戦火が中国大陸全土に広がり始めると、食糧は重要な軍需物資として増産が軍民の協力において推進されることになる。
 若手の労働力が、次々に応召で人手不足となり、加えて化学肥料の不足による減収を増反によって補うという考え方も手伝って、再び、山林、原野の開拓が呼びかけられた。昭和一六年第二次大戦に突入すると、この施策は銃後における国民の義務として位置づけられた。
 乏しくなった労働力と、人力にのみ依存する開拓は容易の業ではなかった。標語に「寸土もあますな日本の国土」というのがあることからみても、戦時の農耕地に対する施策の方向がうかがわれる。
 町村合併等により役場の資料も見当たらないものが多いが、旧久万町の昭和一九年八月から同二〇年七月、すなわち、戦争の最もはげしかった年度の増反記録は次のとおりである。
  林地、竹林の開墾       一四・一㌶
  原野を開墾したるもの      一・三㌶
 この記録は時の農商務省に報告された耕地指定統計である。
 この例からみても各町村共に毎年かなりの開畑面積があったとみてよい。
 昭和二〇年八月、終戦によって日本の食糧不足は歴史的な飢餓状態に追い込まれた。国は占領軍の命を受け食糧緊急増産対策をたてて開拓政策を強行する一方、戦時中よりもきびしい方策をつぎつぎに実行していった。特に農地法の改正とともに未墾地の売収を行って、集団開拓が進められた。(開拓については別項記述)
 したがって、昭和二二年ころには、集団入植・復員・外地引揚げ・戦災帰村と人口の増加も著しく、地元増反面積が急激に増加し、山ろく地帯の傾斜地が再び畑地となった。しかし、同三〇年前後になると、都市及び工鉱業の復興再建と食糧供給の過剰傾向も現れ、また戦中戦後の開畑はまた山林化してきた。
 特に木材価格の高騰と造林意慾の盛り上がりによって、昭和三二年以降は農地の山林転用がはげしくなってきた。現行農地法では、農地の転用について町村農地委員会の審議と知事の許可を必要とするにもかかわらず、無許可の山林転用がはげしく続いており、日陰の問題等から優良農地の防衛問題が起きているありさまである。
 これに反し、昭和三四年から町内では開田に対する要望が高まり、露峰落合地区・直瀬地区・上畑野川地区での開田が進められた。
 従来の開田、開畑は、もっぱら手ぐわによっていたが、今度はブルドーザーを使っての開田であり、今まで考えられにくかった地形での開田が、一年か二年の短期間に完成できた。また、その資金の八〇%が、土地改良区の設立による(共同施行も同じ)低利(三分五厘)、長期(二〇年~二五年)の公庫融資であり、この制度確立は、開田事業の開始に大きな役割を演じている。
 昭和四二年度末において、四七㌶の開田が完成した。
 各事業場所ともに、ほとんどの水はポンプ揚水によるもので、従前の自然落差を利用した水路と対照的である。この面からみると、土木技術の進歩(機械施行)が、従来不可能とされていた地形の開田を可能とはしたが、かんがい用水の面からはやはり不利な地区にあるものが多いといえる。
 反当たりの事業費は平均約二〇万円を要しているが、その内容をみると水利用に非常に多くの費用を費している。
 ともあれ、この事実を通して、山間地帯である久万地方の農民が水田をいかに重要視してきたかを知ることができよう。