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久万町誌

2 明治後期~昭和初期

 明治四二年、愛媛県が、県下各町村に指示して作成させた郷土誌に旧町村別の統計が出ている。この記録と元禄一三年のものを比較して、二〇九年間における農用地面積の増反状況を検討してみよう。
 旧父二峰村のものは元禄年間の記録がないので除いた。当時の町村面積からみると、現在は二倍から三倍の増加を示している。
 特に川瀬村・父二峰村の畑地面積は、前記昭和四○年の統計からみても驚くべき増加を示している。これには次のような記述がある。
 「この四、五〇年以来急速に戸数増加せしをもって、平地の耕地のみにては不足し、山腹または渓間を耕し、以て年々その作付反別を増加し、なお耕作法の改良、害虫の駆除も注意進歩の状況なり。」(父二峰村史)
 これは、明治初年からの人口増加と、武上階級の帰農、勧農政策とによって著しい耕地面積の拡張が進行したことを裏書きしている。
 今日、山腹に荒畑、渓間に荒田の跡を各所にみることができる。また土地台帳には畑とあるが、現在は立派な森林となっている所も数多くみられる。明治の晩年においても、まだ我が国の資本主義が未発達であったため、工鉱業の発展がおくれて、急速に増加する人口の収容は、もっぱら農業の内部包容に依存せざるを得なかったという当時の状況が偲ばれるわけである。
 明治四二年以降、大正、昭和九年代までの各町村農用地統計の記録は見当たらない。第二次世界大戦後、我が国も国際連合に加盟することになり、世界の農林産物需給の計画にしたがって、農林業統計調査に参画することになった。
 その第一回の調査が昭和二五年に実施された。ついで三〇年、四○年と一〇年ごとに実施されている。この資料は、市町村統計としては最も正確で、国・県・市町村の行政資料の基本ともなっている。これと明治四二年のものとを対比させながらその動きをみることにする。
 上表でみるとおり、各町村ともに水田面積については、明治四二年以降昭和四○年までの約六〇年間にはあまり増反がみられない。
 換言すれば、明治初年に始められた勧農政策は、ふくれあがる人口の対策を主軸として、全国各地の開田、開畑を積極的に推進し、その影響によって我が久万町でも、明治の末期には既に開田可能地は、開拓し尽くされていたということである。また今日においても、明治末期とほぼ等しい水田面積が、水不足による被害を起こしている実状からみても、米の生産に必要な水量が限界に近いところまできているとも考えられるし、実際には久万地方の地形からみて、手道具にのみ頼る土木技術の能力では、これ以上の開田はむずかしく、既に開田の許容量に達していたとも考えられる。
 したがって、明治末期以降における農業の動きは、国・県の農業試験場の充実強化による新しい生産技術の向上・品種改良・化学肥料の誕生・新しい農具の開発といった面にしぼられる。つまり単位面積当たりの増収のため、技術の改良普及に重点がおかれたということができる。このような日本の農業発達史の動きそのままが、われわれの郷土にもありありとうかがわれるのである。
 畑は、明治四二年の統計を最高にして大幅な減反を示している。さきほども述べたように、急増する農業人口の食糧確保のために、やむなく山腹を開拓して雑穀生産(当時農民の主食は雑穀であった)をせざるを得なかったために増反したが、大正初期に入ると、ようやく、我が国の重化学工業の発達が軌道に乗り、漸次人口が工場地帯へ移動していったこと、更に、朝鮮、台湾米等の輸入によって食糧過剰と価格下落といった現象が生じてきたことなどによって、条件の悪い地帯の山畑の耕作をやめ、順次山林転用の方向をたどったために、著しく畑が減ったものと考えられる。
 特に、大正末期から昭和初期にかけて、世界的な経済恐慌のあらしが、我が国の農産物の主要輸出品であった生糸の暴落をもたらし、桑園の荒廃が全国に波及し、この地方もその影響を受けた。つまり畑の減反の理由として、このような面も考えられる。
 明治末期に政府は土地改良法を改正して、耕地整理事業をすすめようとした。全国的にもこれを利用して既に開畑された耕地を水田化しようとする動きが出てきた。
 久万町でも、旧菅生村中野村地区の耕地整理事業、旧川瀬村下畑野川六反地区の耕地整理事業が、明治の末期から大正の初期にかけて実施されている。(詳細は別項記述)
 大正末期から昭和初期にかけての不況期に、時の政府は失業救済事業として開畑・開田を奨励した。畑野川地区の千本ヶ原の集団による開畑一四㌶は、三か年の年月をかけて完成し、陸稲六〇〇俵(六〇㌔俵)、の増産成績をあげたと記録されている。
 開墾費については、反当一八円の補助があり、自家労働力を安く見積もれば、ほとんど補助金で事足りたし、土地は元、入合地であったため村有地となっていたから、安く手に入れることができたので、農家は競ってこの開墾に打ち込んだようである。

元禄~明治水田・畑地面積比較表

元禄~明治水田・畑地面積比較表


明治42年以降久万町水田・畑地面積の推移

明治42年以降久万町水田・畑地面積の推移