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久万町誌

1 徳川時代~明治初期

 寛保年間(一七四一~一七四三)の久万山耕地面積は、下表のとおりである。
 これをみると、明治二〇年発刊の「伊予温故録」に記されている耕地面積と、元禄一三年(一七〇〇)の「伊予国村高帳」の耕地面積が全く一致しており、徳川初期において既に久万地方の農地は、下表のごとく開発されていたものと推定される。
 この面積は、今日でいう公簿面積に当たるものである。豊臣秀吉が天正一〇年(一五八二)土地台帳の基礎を作らせ、全国の検地(測量)を行わせたが、六尺三寸四方(六尺四方は約三・三平方㍍)を一歩とし、三百坪を一反(約一〇〇〇平方㍍)としたこと、徳川幕府の慶安二年(一六四九)の検地条例では六尺一寸四方を一歩と改めたこと。明治八年の地租改正にもこれが引き継がれていること。これらの経過からみても、今日のものと比較して面積測定の基礎はあまり大きい変化を示してはいない。
 測量の技術は、今日のものに比べて極めて未熟で、間尺、間縄を使ったものだけに検地奉行の手心によって縄をゆるく張るか、きつく張るか、耕地の端をどこにするかで、一割や二割の差は出たようである。検地の縄張りかきつすぎるとして農民一揆が起きた記録もある。
 また、当時の年貢のきびしさから山奥にはかくし田をつくったり、あるいは、検地の見残し田もあったりしたと記録されている。
 「伊予手鑑」にも新しく開田、開畑による増反、あるいは、水害等による減反についての記録があり、禄高変更のあともみられる。
 明治八年の新政府による検地は、地租改正がねらいで厳正を極め、各村の戸長を督励して、地押し丈量という一筆ごとの丈量と野取図を作った。これを字名・地名。地目・反別・地主名から、隣接する水路、道路まで記入して、各字ごと又は字を連合して切図を作った。更に、これらを集録して一村限図とし、畝順帳には地番順にこれらの事項を記録した。末尾には百姓総代、組頭、戸長が連署し、県令(知事)に届け出て承認を得るという念の入れ方であった。
 この時の基準は六尺(一・八㍍)を一間としており、二間竿を用いたので手心を加えるといった作為も排除され、反別に大きな変化を生じたのである。
 この検地が終わったのが明治一二年であるが、久万町の場合、当時の入野村と、西明神村のものしか見当たらないので、この二つの記録と元禄一三年の記録、すなわち一七九年間の動きを上表で検討してみたい。
 この表をみると、水田面積が約八割の増加を示しており、これが特に目につく。他の町村の資料がないのではっきりしたことはいえないが、後述する明治年間の記録と合わせて判断すると、二つの地区の傾向は他の町村にもあてはまるとみてよいだろう。
 大幅な増反の理由には、一八〇年間の新規造成の累積もあろうが、次のような理由もあげられよう。
 第一に、明治政府は武士の失職二〇〇万人の大部分を帰農させる計画をたて、明治二年に民部省内に開拓局をおき、北海道の開拓を初め全国各地の開拓調査を進めるなどの勧農政策を強力に推進したが、それがちょうどこの時期に当たったため増反したこと。
 第二に、先ほども述べたように明治初年の検地により、いわゆる旧畝から新畝への切り替えによって生じた増反である。
 特に、第二点については、玉井豊著の「明治物語」によれば、松山藩の場合、徳川幕府が慶安二年検地条令で六尺一寸四方を一歩とすることの指示をしたにもかかわらず、実際は六尺四寸を一歩として検地(今治、小松新谷藩も同様)したため、一反歩で四一坪三合、一〇町歩では一町三反七畝六歩の縄延び、つまり増反面積が隠されていたということである。
 愛媛県の場合、新しい検地の増加の合計は上表のとおりである。

元禄13年6月(1970)年の久万町内耕地面積

元禄13年6月(1970)年の久万町内耕地面積


西明神、入野村の耕地面積の動き

西明神、入野村の耕地面積の動き


明治6~12年検地による増反比率表

明治6~12年検地による増反比率表