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久万町誌

二 明治以後の人口

 明治維新になり、大政が天皇に奉還され、そして明治四年七月、廃藩置県がなされて久万郷は石鉄県となり、旧大洲領であった父二峰地区及び大字下野尻地区は神山県となった。当時の人口の記録は、明神、父二峰地区を除き火災などのため焼失し詳かでない。
 維新を経て、欧米諸国から科学技術の導入が著しく、特に医療制度の発展にともなって死亡率が低下し、また明治後期から化学肥料の発達や工芸作物の栽培などで土地生産性の向上が目立ってきた。このような環境が農村における人口増加を促す原因となった。しかし、半面において明治一〇年代の綿紡績を中心にした軽工業部門、同三〇年代の製鉄を中心にした重工業部門の動力化、機械化によって産業革命が遂行され、この産業革命の進展するに当たっての工業労働力の供給源を農村に求めたため、農民離村の現象が著しくなって都市の人口は激増したのに対し、農村人口は停滞ないし減少の傾向を示すようになった。
 これを久万町について見ると、表に示しているように明治三四年の現住人口は一万二三七名であったが、大正五年には一万一四五五名となって両年の差一二一八名の増である。しかし、その後は停滞ないし減少を示し、第二次世界大戦終結直前まで回復することはできなかった。これを県人口と比較してみると、明治三四年を一〇〇と定めて昭和一五年が一一六・六に対し、久万町は一〇五・九とその差一〇・七%減で都市部への流出に伴う人口伸長率の低下がみられる。
 ところで、第二次大戦直後の昭和二二年の国勢調査以降、戦争による食糧難、都市の荒廃等により、我が久万町人口は増加の一途をたどり昭和三〇年代前半にはそのピークに達した。しかし、都市の復興に伴う経済発展で、昭和四〇年以降、都市部への人口流出が再びはじまり、昭和五〇年には遂に、明治三四年の人口を割り、現在も人口の減少傾向、過疎化現象が進行している。

明治以後の人口の推移 1

明治以後の人口の推移 1


明治以後の人口の推移 2

明治以後の人口の推移 2