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久万町誌

一 維新前の人口

 もとより不完全であった当時の人口把握の制度としての戸籍制度は、徳川幕府が起こるに至り、寛永年間の島原の乱の後は、キリスト教の信仰を厳禁し、毎年僧侶に人民の「宗門改め」をさせ、これを改帳する宗門改帳とそのほかに、里長、名主は、氏名、族籍、年齢及び出入増減を記帳する人別帳を調製することとなったので、平安中期より有名無実となっていたこの制度が再び回復の運びとなった。
 しかし、久万町では、これらの宗門記帳や人別帳は、現在大部分が消滅しているので、当時の人口を正確に把握することは困難である。ただ「寛保久万山手鑑」により若干の考察をすることはできる。
 寛永二年(一六二五)、松平家が松山藩に入国して以来、久万山郷は所領中に属し、代官出張所が久万町村に置かれていた。
 寛保(一七四一)当時の行政区画、戸数、人口は表に示すとおりであるか、現在の大字下野尻、旧父二峰村の全域は当時大洲領であったため久万山手鑑の記録には見られない。
 当時の人口を一三二年後の明治五年と対比してみると人口の減少がはなはだ激しい。特に東明神村で、三五六人(三二%)西明神村で、二二八人(三六%)減少しているのに対し、入野村において、わずかに四〇人(一三%)増加しているに過ぎない。その他の村については、明治初年の人口が正確でないため一概にはいえないが、菅生村においても明治三四年(一九〇一)と対比し、二〇六人(一八%)減少している。
 これは、江戸中期に極めてひんぱんな飢饉に見舞われたことがあげられる。特に天明二年~七年(一七八二~八七)のいわゆる天明の大飢饉、及び天保四年~七年(一八三三~三六)の大飢饉による餓死が原因とみられる。

寛保元年(1741)明治初期の人口対比

寛保元年(1741)明治初期の人口対比


寛保元年(1741)人口及び職業

寛保元年(1741)人口及び職業

表内 明治村とあるのは明神村の誤りである。