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久万町誌

1 有形文化財

  ア 三島神社拝殿(昭和三七年一一月一日、県指定 建物)
 久万町菅生宮ノ前にある、大山祇神ほかの神神を祀っている三島神社がある。
 記録によると光仁天皇(第四九代)の宝亀四年(七七三)に越智郡大三島より、大山祇神社の分霊を勧請し、久万山及び太田山(小田郷)の総氏神としたものである。
 江戸時代になって松山藩主加藤嘉明の重臣、佃十成が慶長八年(一六〇三)に、社殿を再建したものである。間口九・八四㍍、奥行一一・四㍍の入母屋造りである。貞享年間(一六八四~一六八七)に修理されている。昭和三六年九月から翌年の六月にかけて、大修理が行われた。このとき、わらぶき屋根は銅板に替わり、外部の柱もほとんど取り替えられた。内部の虹梁、欄間、斗組、蟇股、化粧垂木などはそのまま残された。
 慶長時代(一五九六~一六一四)の構造様式が、そのまま保存されている。特に斗杭、欄間などは、桃山文化(一五九四ごろ)の高尚・雄渾な面影を今に残している。また、銅板葺きの屋根の上部には「折敷三文字」の家紋が入れられている。これは、源平の争乱のとき、河野通信が第三番目の功紋があったと、源頼朝に認められ、以来河野家の家紋となったものである。三島神社を氏神として尊崇した大野氏は、河野家の流れをくむところからつけられたものであ
ろう。
 イ 菅生山大宝寺三三燈台(昭和三九年三月二六日、県指定、工芸)
 この燈台は、菅生山大宝寺にある高さ一四○㌢のものである。鉄製の燈台で、古くから大宝寺に伝わる献燈の仏具である。
 鉄製の中央に立てた棒を中心に、両側に唐草模様の曲線をとりつけ、これに三三個の輪の皿受けを取りつけている。このように鉄を曲げて巧みに造形化した燈台は珍しい。
 この燈台には、中央上部の鉄製の部分に金文字で銘札が刻まれている。それによると、嘉吉三年(一四四三)に田窪(現在の温泉郡重信町田窪)の堀内通光という人が、子孫繁栄を祈願して寄進したものであることがわかる。また、この燈台を作ったのは与州名越(現在の温泉郡川内町)の住人で国永という人である。
 室町時代の金工、金文、仏教思想などに関する貴重なものである。
 ウ 八幡神社本殿・拝殿(昭和四三年三月八日、県指定、建物)
 八幡神社は大字直瀬の下直瀬吉久にある。本殿は寛政二年(一七九〇)の建築で単層の入母屋造りである。屋根はこけら葺きで、軒は二重の疎垂木となっている。間口は一・九八㍍、奥行が一・八二㍍で、平面にすると二㍍四角に入ってしまう大きさである。正面と側面には高欄の縁側をとりつけており、柱は角材でほとんど装飾がない。いたって清楚な感じである。珍しいことには上屋が鞘堂になっている。そのため雨露に守られているので、柱などにもほとんど損傷がなく、建築当初をしのばせる。
 拝殿は寛政元年(一七八九)に再建された建物で、単層の入母屋造り、屋根は本殿と同じ軒二重疎垂木である。昭和三八年の豪雪でかや葺きの屋根が壊れたのでカラートタンにした。
 間口九・七八㍍、奥行き一〇・六二㍍、外側三方には縁がついており、束柱をのばして高欄の親柱がわりにしている建物である。こうした建て方は大変珍しいものである。縁側と内部の境は、高さ三〇㌢あまりの腰板でできており、上部は吹き抜けになっている。
 内部は三二㌢角の大柱を四方に建て、二重虹梁でそれぞれを結び、先に象の木鼻がついている。またその四本の柱は、側壁と外柱を結んでいる。天井は棹縁天井で、禅宗の寺を思わせる。
 このお宮には建築当時の棟札と大工の尺杖が残っており、建築年代が明らかにされている。
  エ 高殿神社の鰐口(昭和四七年八月二五日、県指定 工芸)
 西明神の高殿神社にある鰐口は、青銅製で外径が二七・五㌢、縦径二五㌢、厚さ八・五㌢である。
 右半分に「大日本岡与州浮穴郡久万山東明神三嶋大明神鰐口也」、左半には「于時応永廿三年九月廿三日願主弥五郎正家敬白」と、たがねで彫りこんである。
 記銘にある三島大明神は、現在明神小学校になっている所にあった本組の氏神様である。明治三四年の神社の統廃合によって、高殿神社に合祀された。その際、この鰐口も高殿神社に移管されたものであろう。高殿神社では大切に保管されていたらしく、保存状態が大変よろしく、古さかげんがよくわかる。
 調査の段階で記銘の「大日本国」という書き出しと、「年号に干支が使われていない」ことが問題となった。その後の調査で、大化の改新以降「日本とか大日本国とかの文字が使用されている」ことが判った。また、干支の件については、「干支がないからといってにせ物であるという決め手にはならない」ということも判った。いずれにせよ考古学者に調べてもらおうということになり、前奈良国立博物館の石田茂作博士に写真を送った。その結果「この鰐口は形の上から応永二三年(一四一六)の作と見られる。また、鐘座の蓮華文は地方的な素朴さをもち珍しい」ということであった。石田博士の結論から、県としても室町時代の作に間違いなしとし、県下でも珍しいとの折紙をつけた。町は昭和四七年八月二五日、文化財に指定し保護することにした。
 オ 三十番神(昭和三九年一月一五日 町指定 工芸)
 三十番神は菅生山大宝寺の鎌倉時代に作られたすぐれた神像である。三〇体全部がそろって残っているのは、全国的にも珍しいことである。
 大宝寺は明治七年(一八七四)に大火に遭ったが、この三十番神は本堂から三〇〇㍍ほど離れた理覚坊(通称下寺)に祀られていたために難をまぬがれた。その後本堂に移され、欄間に祀られている。
 三〇体のなかには、両手首から先のないものや片方だけが手首から先のないものなどもある。一二体は岩座の上に乗っている。
 像は寄せ木造りで、高さは四○㌢から五四㌢までのものである。像は護摩をたいたために、油やほこりがしみ込んでいる。が、彩色の残っているものもある。鎌倉時代(一一九二~一三三三)の彩色方法を教えてくれる貴重なものである。
  力 高殿神社随臣一対(昭和四七年八月二五日 町指定 彫刻)
 西明神の氏神である高殿神社には、一四世紀ごろ(室町時代)の作といわれる、ヒノ木の一本造りでできている二体の随臣がある。高さが五六㌢、肩幅四〇㌢、床几に腰をかけたひざの幅が五〇㌢のものである。頭に烏帽子をいただき、身に狩衣をまとっている。
 向かって左側の一体は、少しうつむきかげんで、両手はひざに置いている。右側の一体は、正面を向き、左手をひざから離し、なにかを持っているような形をしている。右手は手首から先が欠けており、はっきりしないが、おそらくひざに置いているものと思われる。二体とも手首から先は、差し込みでつないである。
 二体とも面長である。左側の一体は眉も目もつり上がっており、きびしい表情をしているが、右側の一体は眉も目も下がっており、おだやかさを感じさせる。二体ともロは堅く閉じており、両足を外の方にやや開き、足の沓も左右に開いている。また、左手首以外は二体ともよく似ている。腰から下の衣紋のカーブは直線的であるが、勢いがありみごとである。写実的な面貌は、神像特有の緊張感をただよわせている。
  キ 大野直昌の位牌(昭和四六年一二月一七日 町指定 彫刻)
 大野直昌は槻ノ沢にあった大除城最後の城主である。直昌は土佐の長曽我部の軍に敗れ小早川降景の勧めで、湯築城主、河野通直とともに広島県の竹原へ落ちのびていった。そこで病死した。昭和二九年の秋、広島県竹原の観音堂でその位牌がみつかった。
 位牌はその年の秋一〇月一五日、三六五年ぶりに、ふるさとへ帰ってきたのである。現在は大除城のふもと、槻ノ沢の集会所に安置されている。
  ク 俳 額(昭和五三年七月一三日 町指定 書跡等)
 下畑野川河合の住吉神社にある俳句の奉額は、安永五年(一七七六)に奉納されている。芭蕉の死後八二年、蕪村、六一歳のときのようである。
 大宝寺に小倉志山と久万古俳人たちが、芭蕉の死後五○年にあたる、寛保三年(一七四三)一○月一二日に、追善供養のため「霜衣塚」を建立している。このように久万の片田舎にまで俳句熱が高まっていたことに驚く。
 この奉額は、朗寿という人(畑野川の人と思われる)が、年賀の祝いに奉額を企て、非石(菅生山中興第四世の斉秀和尚の雅号)や地元の晒来、巴扇、鳥十の四人が世設役で、縦五四㌢、横四㍍のものに、俳句が百句記載されている。
 松山、北条、重信、川内などの人々も献句をしている。二〇〇〇句献納されたもののなかから、五嶺(松山藩士ですぐれた俳句の指導者)が選んだ一〇〇句の中に、地元畑ノ川の人、九名の人の作品二九句が入っている。自分たちのお宮に奉納するのだから頑張ろうとしたせいもあろうが、それにしても当時の畑野川の文化の高さを物語るものといえよう。
 百句の中に風早(北条)の茶来という人の名がみえる。この人は小林一茶の門人で、一茶が寛政七年(一七九五)一月一三日、茶来(現在の最明寺の住職であった)を訪ねて難波村(北条市の難波で、風早の一部)西明寺へ来ている。一茶か来たときには茶来は、既に遷化して一五年経っており、一茶は失望落胆して帰って行った。
 こうしたことが、一茶の紀行文に記されているところからも、この俳額の程度がうかがえると共に、畑野川の農民俳諧の質の高さをうかがい知ることができよう。
  ケ 陣 鐘(昭和五三年八月二五日 町指定 工芸)
 陣鐘(どら)は直径が三〇㌢の青銅で作られている。伝えによると、大除城の城主大野直昌が、戦場で戦斗の合図に使ったものだといわれている。
 戦陣では「鉦鼓」といって、鉦(どら)は休戦の合図に、鼓(たいこ)は進軍の合図に使われていた。銅羅は現在では船が港を出るときに打ち鳴らされているが、あの音では戦闘をしている兵に「戦いをやめて引き上げてこい」と聞こえるかどうか疑問に思う。また、太鼓も銅羅も、数多く使わないと、散らばったり、遠くへ出ている兵には伝わりにくかろうと思う。騒然たる戦場に、銅羅や太鼓で、指揮官の命令を伝達していたことを思うと、戦線があまり広くなかったのかもしれない。いずれにしても大野直昌の遺品の一つであることは間違いない。
 コ 久万山絵図(昭和五九年一〇月一二日 町指定 絵画)
 久万山絵図は、江戸時代(一六〇三~一八六七)の後期に、松山藩の絵師遠藤広実が、藩主の命を受け、久万地方の各地を巡って描いたものである。
 当時の松山藩絵師は狩野派で占められていた。遠藤広実は、大和絵系の住吉派の絵師遠藤広告の子である。伝統的な土佐派の画法を基礎に、狩野派の筆法をとり入れるとともに、円山派の色感などの新しい絵画を学びとり、大和絵の形式的な美に加えて、独自の洗練された画風を打ち立てた人である。
 久万山絵図は三巻になっており、幅が四二・八㌢で、長さは第一巻が七四三・五㌢、第二巻は九〇一㌢、第三巻が九三一㌢で、全部の長さとなると、二五七五・五㌢となる。
 江戸後期の科学的・実証精神が反映された絵巻物である。

久万山絵図

久万山絵図