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久万町誌

五 信仰の移り変わり

 民俗部門は全般的に移り変わりがはげしいが、特に信仰に関する事象にはそれがみられ、既に消滅したものが予想以上に多い。その原因としていろいろな点が考えられるが、概括してみれば、①主として自然科学に関する知識・技術の発達普及、②第二次世界大戦後の混乱による伝統継承の軽視、③人口、特に継承者である若年層の減少、④終戦を境としての価値観の変化等の諸条件を挙げることができよう。
 宗教本米の意味からすると、すべての進歩発展の前には、あらゆる迷信、俗信の類が次第に打破されていくのは当然のことである。とはいえ、過去の生活感情にまつわるほのぼのとした追憶、天地自然の壮大な営みに対する畏敬の念等に至るものまでをも葬り去ってしまう必要はない。またたとえその事柄が直接目に見えるような利益をもたらさず、一見無価値なように見えたとしても、そうした風習に伴い行事を実施して行くことによって家庭生活や、地域の共同体としての生活にある種の潤いを与えていることを思えば地域住民こぞって祝ったり、祭り事を催したりすることにも、また大きな意義がある。
 この章をしたためるに当たり、おおまかに、予想していたいくつかの問題点及び予想外であった点について触れておく。まず前者について述べてみよう。久万町は、大宝寺・岩屋寺・浄瑠璃寺を結ぶ四国霊場巡拝の道筋に当たるところから、信仰の具体的形態に身近に接する機会が多く、門前町として発展した。これが外部との交渉を更に密接にし、しかも積極的に行わしめたものと思われる。また一方、この門前町は土佐街道の宿場町として栄えたこと、近郷山村の物資の集散地として中心的位置を占めていたことなどもあわせて考えるべきであろう。農山村の特色である農耕に関する儀礼及び行事が大部分を占めていることはいうまでもない。後者は、山村集落の閉鎖性が特に認められなかったこと、行政区画上は大洲藩(旧父二峰村・旧久万町の一部)と松山藩にわかれていながら両者の間に全く著しい差が認められなかったこと等である。すなわち久万全域にわたっての宗教的行事は、全く共通性に富み格別特異なものは認められない。ただ土佐街道に沿っていながら、直接明治の排仏毀釈の影響がなかったように思われる点と、各小組のほとんどに観音堂・薬師堂・天王堂・権現堂・大師堂・地蔵堂等が建立されており、これは大宝寺から勧請したものではないかと想像される点、特に父二峰地区のそれらのほとんどが大宝寺、又はその末寺である福城寺から出向いて勤行等、宗教的行事(主に仏教に関連したもの)を行う場所として利用されていることなどが認められたに過ぎない。
 なお、ところどころにわずかではあるが憑霊現象を認めたけれどもそれを詳しく調べることはできなかった。
 諸宗教は、山村ながらほとんどの宗教がわずかずつではあるが教線を張って信仰されており宗教に対する寛容性、曖味さといったものが認められた。