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久万町誌

三 獅子舞い・ねり

 秋の豊作を鎮守の神に感謝して行われる祭りにつきものの獅子舞いやねりは、その歴史を尋ねると、遠い昔、江戸時代の寛政年間に久万町に発展のきざしがみられる。
 寛政年間といえば、江戸史上最高ともみられる天明の飢饉のあとで、寛政の改革により、一般に質素倹約がさけばれていたときであり、農民の生活も相応にしいたげられていたと想像される。そうしたときに、獅子頭やねりの用具を整えようとするのだから、代官か容易に承知するはずもない。ちなみに直瀬の例をみると、寛政四年(一七九二)に獅子頭の購人許可を代官に請願し、実際に詐可されたのは寛政六年(一七九四)のことである。他の地域もこれとほぼ同じ時期に、それぞれの神社単位に氏子によって整えられていったようである。
 獅子舞いの用具が整うと練習にとりかかった。獅子舞いの師匠として温泉郡田窪あたりの人を雇って来て、習ったもようである。
 昼間は収穫の作業に従事し、夜ごと夜ごと鎮守の社に集まって大太鼓・小太鼓のばちさばきから舞いの舞い方、すべてを習うのだから容易なわざではない。舞い子は若衆連中だから、うち興じて深夜におよぶこともしばしばであった。いわば昼夜にわたる重労働が一か月以上も続くのである。そこで練習のはげしさをみかねた氏子総代が氏子に夜食の寄進を申し出、氏子はその寄進をなした。
 獅子舞いと同時に「ねり」の練習も行われた。「ねり」は日ごろ農民農作業に取材したもので、爺と婆とで畑を耕して種をまく、それを野猿がじゃまをするといったようなしぐさで、当時の百姓の苫労を表現したものである。このねりを獅子舞いの間にはさんで一連のものとしていたのである。
 獅子の舞い方には「新獅子」「すまし」「曲」「芋掘り」「山さがし」「孔雀」などと名づけられたやり方があった。また、この獅子舞いには寝ているところを起こすための女役が登場したりする場面もあって、勇壮ななかに一種の柔かさを感じさせる。
 元来、獅子は霊獣であり、天にも昇るその智勇にあやかり、これで悪魔を払い、神明の加護を得て、ただひたすらに生きぬこうとした、農民生活の一端のあらわれである。したがって、その舞いも勇壮で活発で力強い迫力のあるものである。獅子頭を見ただけで幼児は恐怖をうったえるほどのものであるが、その獅子が、自分のはだに住まう小さな虫を取ろうとするしぐさや、寝ているところを起こされて立ちあがって舞うしぐさなどには、えもいわれぬユーモアがあり、当時の人々の人情のこまやかな面がうかがわれる。
 ともあれ、大太鼓・小太鼓の音にあわせて跳びはねる獅子を見ていると、そのリズミカルな動きと、力強さにしばしの時を忘れさせるものがある。
 よい祭りの日に氏神にその舞いを奉納し、祭り当日は氏子の有志宅を請われるままに訪れて舞い歩き、悪魔払いと同時に幸せを授けて回った。
 現在では、獅子頭を扱うものもいなくなり、祭礼のたびにその復活が望まれ、ぼつぼつと始めた地区もでてきた。
 遠い祖先の生活感情と直結し、郷土芸能の一つでもある獅子舞いは、神典の渡御とともに、以前に返したいものの一つである。