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久万町誌

5 死後の供養

○七日ごとの供養
  死後七日目ごとに仏前に「おりょぐ」と「だんご」を供え、お墓参 りをする。このとき「だんご」は着色しないものを用いた。
○四九日目の供養
  死亡した日から数えて四九日目を「四九」といった。四九には餅をつき、香典返しの意を含めて隣近所や親戚へ配った。なお法要を営むは言うまでもない。仏前には一升五合(二・七㍑)の餅をつき、それで一個の大きな餅と四九の小さな餅を作って供えた。この小さな餅は墓参りのあと参会者に配り、大きな餅は檀那寺へ納めた。これは、死者の生前の罪滅ぼしとして行われたものである。色もちや色だんごはつくらなかった。
  なおこの日、遺品の分配を行った。この遺品の分配を「形見分け」とか「しょうぶ分け」とかいった。
  遺品の配分は、遺族の意志によって行われ、死者の「紋付き」は後継者や後継者の嫁などに与えた。紋付き以外は、死者の近親者から順次渡していった。この形見の品々を後入り(男でも女でも)が用いると、とかくに不幸なことが起こるとして忌み嫌われた。
  これは、「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」といったことから生じたものらしい。
  夫婦は二世で、既にその一世はどちらかの死によって終わったものとなる。したがって後入りとの生活は下女か下男のようでなければならないというところからきた考え方である。
  そのようなことから「生きあとへ行っても死にあとへは行くな」などといわれた。
  四九日に形見分けをしたのは、死者の霊がこの日まではその家におり、四九日からは墓場へ移るとされていたため、霊がある間はさけなければならなかったからである。
  新盆とは死後はじめての盆のことである。この盆の月になると、一日に親戚あい寄り精霊棚を作って新しい仏を祭った。また、このとき、燈籠のともしはじめをする。この地方では燈籠は一個で親戚のうちだれかが贈るが、あとの人たちは、そうめんや線香を供えて新しい仏の供養とした。
  寒日は、死者がはじめて迎える一二月の巳の日で、この日を新仏さんの正月として供養した。
  この日墓前にはシメナワを張り、お墓参りは夜中に「カラスの鳴かぬうち」とか「鶏の鳴かぬうち」とかに参ることとした。墓前ではその日についた餅をシメナワやわらとともに焼いて、その餅を墓前でお参りした人たちでわけ合った。お餅をわけるとき、ほうちょうにつきさし、うしろ向きにつきだして渡した。また、この餅はお重ねとはしなかった。不幸は重ねたくないとの意からである。
  墓前で仏様の正月を祭った人々は、家へ帰るときは火をいっさい用いないでまっくらな道を帰った。また、帰りつくまでひとことも口をきかない。もちろん途中で他の人に出会っても口をきいてはならないとされていた。
  この風習はずいぶん古くからあったらしい。平安の末期とか、安土、桃山の時代からとかいわれている。
  寒日を一二月の最初の巳の日としたのはどの地区も同じだが、旧町内は辰巳とし、上野尻や父二峰、川瀬地区は巳午とした。つまり、夜中の一二時に墓参りすることから辰の日から巳の日としたところと、巳の日から午の日にかけてのところとがあったわけである。新彼岸は、仏が最初にむかえた彼岸のことである。新しい仏を、特別にまつったものである。このほか一年目を「ムカワレ」といい、その後は三年目、七年目、一三年目、一七年目、二三年目、二七年目、三三年目、三七年目、四三年目、四七年目、五〇年目、一五〇年目というときに、それぞれ法要を営んだ。ところによっては二五年の法要をすることもある。また一五○年以後は五○年ごとに法要を行うことになっている。