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久万町誌

一月

 1 若水汲み
 その年の恵方に歳徳神が座すので、その方向に向かって井戸の水を汲み上げる。この行事は必ず男に限られていて、たいていは家長がこれにあたることになっている。水を汲む際には、松明をつけて井戸にいき「福汲む、徳汲む、幸い汲む。万の宝汲み取った」と高唱し一定の容
器にいれる。若水を神様に供え、家族を起こして洗面用、煮物用、炊事用として使い初めをする。
 地区によっては、正月三日間若水汲みの行事を行うところもある。
 女の腰が暖まるのは年中で正月の朝だけであるといわれている。元旦に限っては男が炊事万般を整えた後、妻子を起こし、新しい年を迎えるのが普通の家庭のならわしになっていた。
 2 正 月 礼
 元旦の朝、家族はそろって家長に新年のあいさつをし、全員で拝礼をする。干柿、ミカンを神前よりおろしていただき、お神酒を拝受して年間の幸福を祈る。また家長や家族は礼装で氏神に詣でる。
 組内の門礼といって、知己、友人の家を回る。したがって、女は朔の日は外出をせず、家長や男子の回礼に備えて酒肴の準備にあたる。
 中流の家庭では、おかん酒用として斗樽一個、ブリのうす塩もの、数の子などを用意する。更に、豆腐、こんにゃくを自家製造し、刺身、焼き魚、煮付け、つまみもの、汁、餅、など用意して回礼を待ったものである。
 3 仕事始めの行事
 木の伐り初め。二日の朝「明き方」にあたる山に行き、松、サンジ、ネズギまたは、ナラの木などを「明き方」にむかって倒して持ち帰り、お神酒を供えて山の神を拝し、木より起こる災難免れの祈願をする。その年に普請の計画があれば家に使う木一本を添えて持ち帰るところが多い。
 藁細工の仕事初め。ゴム、革などの乏しい時代には、履物をはじめ、農業用具にも藁製品が多く使用されていた。しかも、自家製品を使用するのが普通であった。したがって藁製品は、農家にとって極めて大事なものの一つとされていた。草履・わらじ・牛馬のくつや駄馬用の綱・田犁につける綱・負い縄などの作り初めを行うとともに、その製品にもお神酒を供えた。マニラ麻、ゴム製品が入ってくるようになってきた大正年間からだんだんこの行事もすたれてきた。
 四日のいわれと行事。この日は、暦の上で不浄日であるとされ、朝、門松にご飯を供える。
 また、「ないぞめ」といい「銭通し」を作り、神前に供えるところもあった。
 4 ご祈祷初め
 医薬の恩恵に浴し得ない時代の産物として重要視されたものに、「禁厭祈祷」という行事がそこそこに行われていた。
 三日には、お日待ちといって、各組にある「てんのんさん」、「あたごさん」などに酒肴を持ちより無病息災を祈願した。
 5 七日節供
 この日は、七草がゆを食うと元気になるといわれており、餅をいれた七草雑炊をたいて神仏に供えるとともに食うならわしがあった。
 6 おかざりあげ
 一〇日又は一五日、この日をおかざりあげといい、幸い木は新木にし、おかざりは取り除き、焼くか、川へ流した。
 7 鬼のコンゴ
 一六日には、各組でそれぞれ会堂など一定の場所に集合して、ご祈祷初め(年仏の口明けともいう)があり、みんなで大きさ約五〇㌢くらいの円型の藁製クツ片足を造り、組境の道路や谷を渡して頭上高く縄でつるし、それに一升炊き(一・八㍑)の米の飯をつめ、ところによって違うが味噌や大根づけを添え、これを鬼の弁当とした。この行事によって、今年中は組内には鬼が一切入らないし、更に組内にいる鬼も「弁当を持って逃げて行く」というものらしかった。
 この行事も昭和に入ってだんだん薄れ、今ではごく一部の地域で行われている。
 8 二〇日正月
 遊芸稼ぎ人・雇われ人・乞食などは、ようやく暇になった、二〇日に正月祝いをする。また一般でも改めて餅をつきともに祝うならわしがあった。特にこの日は、ひもじいめをみない日ともいわれた。
 また、麦ほめといって、田に行き、「麦がようできた」とほめることを行う地区もあった。
 9 その他娯楽に関連し行事のごとく訪れるもの
 一月中には、行事とはいえないが、あたかも行事のごとく訪れるものに、獅子舞い、人形芝居(阿波より七人連れ)伊予万才(松山溝辺より六人連れ)浪花節語り(三味線弾きともに四人くらい)等がそれぞれの地域をわたり歩いてみんなを楽しませてくれた。一月は雪の下でもあり、屠蘇気分に包まれて明け暮れる楽しい休養の月ともいうべきであった。けれども時代の移り変わりにつれ、これらも見られなくなった。