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久万町誌

2 畑作とならわし

  ア 麦ふみ
 この作業は、霜柱で根が浮き上がるのを防ぐのと、伸び過ぎを防ぎ、根をはらせるために行うのだそうである。その意味は別として、麦が、七㌢ぐらい伸びたころに行う作業である。
 この作業は、一、二月ごろの寒い時に行う。それで、タオルでほおかむりをし、でんち(ちゃんちゃんこ)などを着て、手をふところに入れ、横になって踏んでいく。
  この作業は、ほとんど水田や平地の畑だけに限られていた。
  イ 麦焼き
 昔の麦は、主食であるばかりでなく、自家用の味噌・醤油の原料として重要な作物であった。しかし現在はたばこの間作ぐらいでほとんど麦の姿はみられなくなった。
 稲がいなきにあがってしまうと、水田の一部(裏作)や畑の麦をまくのが当時のならわしであった。
 この麦作りで特におもしろいのが麦焼きである。この麦焼きは、盛夏の候に行う仕事である。だから日中はあつくてやり切れないので、作業は、ほとんど夕方から始めて夜間に行われた。
 麦は、千歯ではこげないので、穂だけを焼き取る方法として考えられたのが麦焼きの作業である。
   『夕やみせまる作業場の周囲には、麦の束が山のように積まれている。
   千太は麦の穂に火をつけた。そして、妻のハナにわたす。その火の消えないうちに、千太はすばやく次の束を取って火をつける。ハナは穂が全部焼け落ちたのをみはからって、近くにおいてあるおけ(水を入れている)につけて火を消し、おけのむこう側にほうる。
  そして、千太の持っている束をもらう。
   こうして二人の共同作業で、一束、一束焼いていったのである。千太と妻のハナは、あつさといそがしさでやりきれなくなるとたびたび休んだ。そのたびごとに用意してある、ひやい水をおいしそうに飲んだ。千太とハナの顔は、汗とほこりでまっ黒になっていた。』
 この焼きおとした麦の穂をからさおでおとした。この作業も真夏のころだけに、暑い上にはしかくて、どんなに皮膚の強い人でも、よくあせもをだしたそうである。
  ウ とうきび(玉蜀忝)はぎ
 当時の農村における共同作業の中には、前述の田植え、田の草とりのほかに、とうきびはぎがある。
 藩政時代には、米を藩主に九割がた納めていたので、農家にとっては麦とともに主食としてとうきびは欠かすことのできないものであった。
 また明治時代になっても、交通が不便なために林産物も安く、一家の経費は米を売ってまかなっていた。だから、生活様式がかわったとはいえ、どこの家庭でもとうきびのご飯をたべていた。
 そんな関係で、当時はとうきびを大量に耕作した。
 とうきびはぎは、とり入れの時に行う作業である。この作業は、稲刈り前の夜間の作業として共同で行われた。
   『ようやく秋も深まり、いつしか色づきかけた稲穂は、さわやかな秋の風に吹かれながら波うっている。あちこちの畑には、とうきびの葉が、かさかさと音をたてて鳴っていた。
   この部落にも、数日前からとうきびの取り入れが始まっている。
   ここ牛蔵の家でも、今日はとうきびの取り入れの日である。朝はやくから、親せきの人や近所の人が大ぜい手伝いにきた。牛蔵の家には、かわいい年頃の娘がいたので、手伝いの人の中には、若い衆(若者)が多かった。(当時の風習として、その家に若い娘がいると、若い衆が、よろこんで手伝いにきたそうである。)また、手伝いの中には馬をつれてきた人もいた。(これは遠方の畑から、とうきびをほごやかますに入れて運ぶためである。)
   牛蔵と年株(年長者)である馬太郎が、その日の仕事の段取について話し合い、馬太郎はみんなを集めて、きょうの段取を伝えた。さしずにしたがって、いくつかのグループに分かれ、あちこちの畑へと急ぐ人たちに娘の花江と母のスギとは、愛そうよくお礼を述べていた。にぎやかだった牛蔵の家の庭も、急に静かになった。あとには、花江とスギが残り炊事場で食事やおやつの準備に忙しかった。
   家の庭や軒下・納屋にとうきびが山と積み込まれた昼過ぎには、あちこちに分かれていた人たちが、三々五々牛蔵の家にかえってきた。花江はみんなに、湯茶やおやつをすすめていた。ひと休みすると、広い庭に山と積まれたとうきびのまわりに集まって、せっせと皮をはぎだした。また、男衆の中から二、三人器用な者が選ばれて、いなきにかけるように何すぼかの皮を、たがいに合わせてしっかりとくくった。(注参照)昼間、山と積まれていたとうきびも大ぜいの人によって、つぎつぎとかたづけられていった。残りはよなべにまわした。昼間より人数は減ったが、元気な若者たちは花江を相手に、にぎやかに作業を続けた。
   あくる日牛蔵は隣の平作に手伝ってもらって、いなきにとうきびをかけた。牛蔵は、昨夜のすぼの中からおもしろい形をしたものを三個よりだして、恵比寿・大黒さんに供えた。これはたぶん豊作に対する感謝の気持ちのあらわれであったろう。』
 注 下図のように、実のついている方を外側に出し、皮をうち側に持ってきて、交互に積み重ね、縄ですぼが抜けないようにしっかりとしばる。すぼの数は、片側に八から一二ぐらいにするのが普通である。この方法は所によって多少ことなっているようである。
 このとうきびはぎの作業は、大勢の人が集まっておこなうだけに、話に花が咲いてとてもにぎやかであった。
 とうきびはぎが終わると、あちこちのとうきびいなきにかけた。その風景は、また格別でさっ風景な農村に美しい色どりをそえていた。
 このいなきにかけられたとうきびをおとす作業は、農村の暇な積雪のころに行われた。当時は、長い間いなきにかけていたので、よく「盗まれた」という話を、あちこちで耳にした。
 これを原料として作ったのが、久万山名産のはったい粉である。

トウキビ結束図

トウキビ結束図