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久万町誌

4 子守りと労働

 昭和一〇年ごろには、まだ学校へ子供を連れて行く生徒がいた。
 以前は労働が激しかったので、子守りを雇った。それは、当時の農家の妻は大きな労働力として貴重な存在であったから、子供が生まれると子守りを雇ったのである。
 この子守りは、荒子・雑仕と違って金は与えず食べさせて年二度ぐらい衣絞を新調したり(これを仕着せという)履物を支給したりする程度で、雇ったのである。
 この時代における農家は、上流家庭でもわが子が大きくなるとその下の弟や妹の子守りをさせ、雇っている子守りには農事の手伝いをさせたものである。当時の田畑の肥料は、すべて下肥・きゅう肥(だの肥ともいって、牛や馬に草やわらをふませたもの)刈り肥(野草)であったので、下肥、きゅう肥、刈り肥の運搬などは重労働であった。そのためにも、子守りの労働が必要であった。
 あとに述べるが、田植え終了後二か月ぐらい経過すると、めんつ(めんこなどとも呼び、竹製の弁当箱)やこうりに御飯やおかずを入れ山草刈りに何日も出かけた。この草刈りには幼児も連れて行き、子守りに世話をさせたり、大きい子供に遊ばせたりした。だから、じゅうぶんな世話ができないので、幼児は、ブト(昆虫の一種で人間の血を吸う)にかまれたり、カヤで傷をしたり、時には夕立にあって、ぬれねずみのようになったり、本当に見た目にもかわいそうであった。また空腹で泣き始めても、高い所で草刈りをしている母が急には降りてこられないので、子守りがきげんをとって無理に眠らせたり、時には幼児がむずかると子守りも困って、幼児といっしょに泣いたりした。考えてみると子守の苦労も、なみたいていのものではなかった。