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久万町誌

三 住生活

 久万町には山林が約一万四〇〇〇㌶あまりあるが、その八割は草生地であった。化学肥料のなかった明治四○年ごろまでは、田畑の肥料は山野の草を刈り、これを肥料としていた。また、各家庭の屋根は山の「萱」を用いていた。民家はもちろん、神社・仏閣もことごとく、萱ぶきであった。
 久万町の商店街には、かわらぶきもあったが、萱ぶきの家が多く散在していた。
 家を新築するのには、まず鬼門といって、北東にあたる方角を入口にすることをさけた。水利・雪害・風水害の時などを考えて条件のよい場所を選んだ。
 翌年家を建てる予定地は、節分の前に屋敷を造って、シメ縄を張り、神官のお祓いを受け、この敷地を出雲屋敷(神様の土地)としておき、分家を建てた。
 便所や風呂場は家の外に建てた。これは便所の臭気や、風呂の火の用心からであろう。しかし、風呂はなかなか建てられず、近所でもらい風呂をしていた家が多かった。
 萱ぶきの家の修繕は組じゅうの人がこれに当たった。萱刈り、負い出し、ふき替えと、三日間くらいは勤労奉仕をした。このふき替え手伝いには、縄を組内では二房(一房は五○尋。おとなの両手をいっぱいにのばして、この大きさを一尋とした)組外では二五尋(半房)を持って行くことになっていた。
 明治一二、三年ごろまで、かや場や草生地が多かったが、しだいに植林も盛んになり、はげ山、草生地にはヒノキ・スギの苗木を植えた。明治二五年に四国新道のできるまでは、車道はなく、交通が不便で、林産物の販路も開けず、山林には巨木が多く、家屋を建てる材は極めて豊富であったため、家屋は大型なものが多かった。これは、家族数ともにらみ合わせてのことであろうが、平均四間に七間くらいとみてよい。柱も五寸五分角、それに尺から尺一寸角のケヤキの大黒柱を用いてある。
 このように、萱ぶき屋根にあら削りの堅ろうな不体裁な家で長い間しんぼうした民家も、しだいに屋根を萱からかわらに替えていった。
 第二次大戦後は、特に通風や採光を考えた軽便な家が建てられるようになった。この軽便な家屋は、管理が容易であり、保健にもよく、しかも、経済的負担も少ないということで、この時代に最も適していたものであった。経済生活が安定するにしたがって、昭和三〇年ごろから急激に改造や新築するものが多くなり、昭和四〇年ごろになると農村の住宅も文化的になってきた。一般でも耐火構造の家屋が目立ちはじめた。建築材料も安く、丈夫で、体裁のよいものとなり、豪華なものも建てられるようになってきた。しかし、住宅不足は深刻で政府は昭和四一年度より五か年計画で、一世帯一住宅を目標に建設をすすめているが、本町でも町営住宅への入居は希望者の半数を満たしているにすぎなかった。昭和五〇年から六〇年初めにかけて明神・畑野川・直瀬・父二峰に「3DK」の町営住宅が次々と建てられ、住宅事情は著しく改善された。