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久万町誌

5 合併後のあゆみ

 昭和三四年三月三一日、旧久万町、川瀬村、父二峰村及び美川村槙谷が合併し、新久万町が誕生した。旧川瀬村、旧父二峰村職員は、本庁に移転した。更に、同年四月三〇日には、町長、町議会議員選挙が行われ、新しい体制のもと久万町政が始まった。
 合併当初は、町内の地域較差の是正をどうするか、合併による僻地の解消はどうあるべきか、健康にして文化的な生活を営むためにはどのようにしていかなければならないか、といった問題か山積していた。
 特に、初代町長日野泰氏を中心に議会が一体となって、条例、規則の制定等、審議が重ねられた。
 また、人口過密に悩み、二、三男対策に懸命に取り組み、人減らしのため海外移住を推進した。貧しさから脱却し、物の豊かさを求めた時代だった。
 合併後の十年間は、山積する課題解決におおわれた時代であった。町単独事業を進めるとともに、国・県の各種補助事業を実施するなど町づくりの基盤確立の時代であった。
 厳しい財政事情の中で事業推進には、多大の労苦と資金を必要とした。特に、苦しい財政の中で町有林の伐採による収人が重要な財源であった。町有林を営々として育てられた先祖の遺徳がしのばれる。こうして、諸条件が整備され、久万町発展の基礎がつくられた。
 昭和三五年四月、久万町の集団移民の推進に対して、県よりジープ一台(七〇万円)が贈られた。同月には、海外へ移住する人たちの盛大な壮行会が久万公民館で行われた。昭和三八年七月から一一月までの五四日間、日野町長が南米視察をした。
 昭和三八年一月に入ると、毎日大雪が降り、六〇年来の大豪雪となった。これがいわゆる「昭和三八豪雪」である。積雪による被害が各地で出た。上野尻で住宅一棟大破、伊予鉄バス車庫倒壊、久万小学校北校舎の柱の破損などが相次いだ。久万町内の積雪は一㍍五〇に達し、大雪で孤立した芋坂の山村家族に対し、救援物資輸送が行われた。役場内は雪害対策本部を設置し、町民の救済に当たった。
 同年四月、現在地に久万町の新庁舎が竣工し、盛大な落成式を挙行した。
 昭和三九年九月一四日、オリンピック東京大会の聖火が久万町内でもリレーされ、三三号線を下って高知県へ受け継がれた。久万町上野尻出身の片山美佐子選手が、槍投げでオリンピック大会に出場した。
 昭和四〇年一〇月一日、国勢調査で久万町世帯数三三五六、人口一万二五六八人となった。
 昭和四三年一一月、久万町合併一〇周年祝典が行われ、記念行事が盛大に行われた。同年、久万町誌が発刊された。
 昭和四八年には、上浮穴環境事務組合が設立され、これまで、し尿処理、清掃、老人ホーム等が個々に運営されていたのを広域化して、郡内が協力して住民の生活及び福祉の向上を図ることになった。
 昭和四八年に、一万人を割った久万町の人口は、その後も若年齢層を中心に町外流出を続けた。合併当時は移民を勧めたが、それが皮肉にも過疎化を促した。このような現状を憂い、新町制二〇年の基盤をもとに、「住みよい町づくり」を目指して意欲的に活性化に取り組んだのが、昭和五〇年代である。
 住民の生命を守り、住民の急病に対する不安を解消するための救急業務が、昭和五一年に役場職員によって、初めて二四時間体制で行われるようになった。この活動は、五三年四月に建設された上浮穴消防署に引き継がれることになった。なお、昭和五一年の救急出動は一五五件であった。
 昭和五一年には、全町公園化運動の一環として、三坂に桜の植樹をはじめ、皿ヶ峰に公衆便所を設置した。町づくり活性化の第一歩は、何といっても「ふるさと村」の開村(五二年)である。これは、昭和四七年の「自然休養村事業」の指定により、観光開発が促進されることになったためである。
 昭和五三年一〇月三一日、「久万町合併二〇年誌」が出版された。
 昭和五九年には、「ふるさと家族旅行村」が開村し、同年竣工したB&G久万海洋センター・久万公園と国民宿舎「古岩屋荘」(四九年)とを含めて、ここに久万町は「休養の町」としての体裁を整備した。
 納涼祭りの盛況とともに、新しい文化の創造である「五神太鼓」が三島神社に本納(五九年)され、同時に、第一回の「御用木祭り」も始まり、久万町に多くの人々を招くこととなった。
 時を同じくして、久万町に中型店進出問題(五九年)が起き、商店街はもちろん、消費者にも一大関心事となった。このことは、商店街活性化・小売店の近代化にもつながり、商店街の再開発に向けて真剣に取り組むこととなった。
 産業面では、昭和五四年、観光リンゴ園がオープンしたのを始め、観光農業生産組合も発足した。これをきっかけに、各地にリンゴ園・ナシ園・ブドウ園・イチゴ園などが順次開園し、現在(六三年)では、五万人以上の入園者を集めるまでに成長した。高原野菜の生産でも、ダイコンが、国の野菜指定産地となり、生産が急速に高まるとともに、トマトの生産額は、昭和五九年に五億円を突破し、野菜生産地としての地位が高まった。
 一方、「林業の町」としての活性化にも力が入れられてきた。昭和四一年の森林組合の合併以後、林業構造改善事業による生産基盤の整備が進んだ。昭和四六年には、「林業振興展」が始まり、これが四九年の第四回から久万町協賛行事としての「林業祭」に発展した。育林技術体系の整備により、昭和五〇年には「婦人林業教室」が誕生した。また、農林家のみならず、兼業林家の技術水準・経営能力の向上のために、「日曜林業学校」も開設された。しかし、「林業の町」として躍進するためには、こうした生産面だけでなく、流通や加工にも力を入れる必要があった。そのために、県森連・久万町森林組合による原木市場が開設され、菅生には、新林構実験事業で、現代的な加工施設が完成(五四年)した。また、「久万製材業懇話会」(六〇年)も発足し、これまで業者間でまちまちであった製材品規格を統一し、久万産材のブランド化を確立して大量消費に対応できる共販体制ができた。これによって、民間と行政がスクラムを組んで産地間競争で生き残るための流通対策を計画的に進めることになった。
 全国から、「育林の町」といわれるほどの成果を挙げつつある本町は、昭和六三年一一月一二・一三日、「全国木のフォーラム」を町合併三〇周年記念行事の一環として開催した。在来工法の再建を考えるために、カナダ人講師を含む約三〇〇人が参加した。在来工法による大型建築の畑野川小学校や町立美術館は、参加者の強い関心を集め、木造建築のよさを全国に紹介することとなった。ちなみに、畑野川小学校は、昭和六三年八月に落成し、わずか四か月間に二五○○人以上の見学者が訪れた。
 一二世紀へ向けて、潤いと活力のあるふるさとづくりを目指す久万町にとって、体力づくりや文化活動の推進も見逃せない。
 昭和五〇年、体力づくり日本一となった久万町は、翌年「体育協会」を設立した。長寿社会を迎え、全町民の健全な体育・スポーツの振興と体力向上を図る必要があったからである。昭和五七年には、町内の「四国の道」が完成し、B&G久万海洋センター(五九年)・久万公園も相次いで竣工した。これらのスポーツ施設は、現在町外の人々も利用しており、今後は長期滞在型施設の整備も考えられている。
 また、文化活動面では、昭和五二年六月に、「久万町文化協会」が発足した。これまで、久万町には八〇余りの文化団体やグループがあり、それぞれ活動を続けてきた。当時は、高度経済成長によって物質的な豊かさを求めてきた国民意識も、時代の流れとともに心の豊かさの希求へと変化しているときであった。町民が生きがいのある人生を創造するために、趣味活動の充実や多様な文化活動等への必要感が高まり、町内の文化団体やグループが、相互の連携協調と、より積極的な文化活動を推進するために「文化協会」が設立された。活動は、年を経る毎に活発となり、俳句・美術・舞踊・写真など二五部門となり、結成一〇年後の昭和六二年には、一〇〇〇名近い会員を擁し、県下五六の文化協会の中でも有数の協会として高く評価されるまでになった。
 折しも、昭和六三年一一月、久万町合併三〇周年に完成した「上浮穴産業文化公館」は、今後潤いと活力のあるふるさとづくりを目指す久万町の産業・文化振興の中核施設として、郡内はもちろん久万町の発展に寄与するものと期待されている。
 「林業と休養の町」久万町の発展は、こうした内からの努力とともに、交通の発達に負うところが大きい。
 昭和四九年一一月、県道久万内子線が国三八〇号線に昇格し、父二峰地区の大動脈の改修が促進され、昭和六一年には新真弓トンネルが開通した。
 昭和六〇年一〇月には、「国道三三号線整備促進期成同盟会」が結成された。これは、瀬戸大橋開通(六三年四月)に伴う高速化時代にふさわしい道路整備に向けて、「三坂トンネル」の早期実現を図ろうというのである。沿線一三市町村が結束して、この悲願達成に取り組むことになったが、その会長に久万町長が選ばれ、四国新時代の先頭に立つことになった。
 三坂トンネル開通の暁には、県都松山市との厚い壁がなくなり、昭和五九年新設された三坂のスキー場を始め、多くの休養施設等が一層の活気を呈し、久万町はもちろん上浮穴郡の産業・経済・文化の発展が大いに期待できるであろう。

新三坂トンネル

新三坂トンネル