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久万町誌

4 戦後のあゆみ

 終戦後ありとあらゆる不穏なデマが乱れとんだ占領政策も、当初心配していたほどの混乱もなく順調に処理された。なかでも戦争遂行の責任者として各層の指導者が処刑されたり、一切の公職から追放されたのはあわれといわなければならない。同じころ農地改革が行われ従来の地主と小作人の関係は姿を消したのである。
 昭和二二年三月には「教育基本法」「学校教育法」二三年七月には「教育委員会法」二四年一月には「教育公務員特例法」二四年五月には「文部省設置法」、同年六月には「社会教育法」など重要法律があいついで制定され、数年を経ないうちに、我が国の新しい教育の体系の基本が定められた。この一連の改革の歴史的意義は明治五年の「学制」にも比すべきものである。
 これらの教育改革の中で最も重要な意義をもつものは「教育基本法」の制定である。これまで長く我が国の教育において至上の権威をもち、その精神的支柱となってきた教育勅語に代わるものとして定められたもので画期的な意義をもつものである。
 「教育基本法」についで戦後我が国教育の根本的路線を定めた改革は「学校教育法」の制定である。同法は六・三・三・四制の新しい教育体系を立て、教育の機会均等の理念に基づいて教育民主化の理想を達成しようとしたのである。
 ここに従来の国民学校は小学校と改名、新制中学校の誕生、義務教育は九か年となったのである。しかし当時の物資不足はどうしようもなく、教科書らしきものも文房具もなく、中学校は誕生しても校舎はなく、しばらくは小学校での間借り生活が続き、教科書等も戦前のものに、都合の悪いところは墨汁でぬりつぶした、まことにあわれなものであった。
 「六・三制、野球ばかりが強くなり」と風刺されたのもこのころである。
 ミルク給食が各小学校に実施され、児童の目の輝きも日毎によくなる。各校にPTA組織も結成された。
 二三年には上浮穴農林学校が上浮穴高等学校と改称され、普通科が新設された。
 二四年には久万中学校新築その後父二峰・川瀬・明神と新校舎落成、教育委員会発足等、名実共に新学制の充実となり、ようやく落着きを取りもどし復興の息吹きを感じるようになった。
 しかし一方では民主主義の無理解と混迷した社会の影響に加えて、ヒロポン患者の横行など、青少年不良化の傾向が芽生え、憂慮すべきこととして心ある人々の頭を痛めはじめたのもこのころである。
 昭和二六年九月八日、対日平和条約、日米安全保障条約調印を機に、苦しかった耐乏生活も漸次解消され真の平和国家・文化国家・民主主義国家建設への努力が力強く続けられたのである。
 久万町内にも各種の教育施設・文化施設・福祉施設が着々と完成されたのもこれと時を同じくしたものが多い。
 昭和三四年三月三一日には、久万・父二峰・川瀬の三か町村と美川村の一部(槙谷)を合併、人口約一万五○○○人の大久万町が誕生し、産業・経済・文化等すべてに目覚ましい発展を遂げたのである。なかでもスポーツにおいて活躍しオリンピック東京大会に出場した片山美佐子の残した記録は特筆すべきものである。
 片山は中学校時代にも、通信陸上競技大会において二、三年生で砲丸投げの部に連続日本一の記録をもち、期待されて高校に進学し、種目を槍投げにかけて精進し、次々に記録をのばし遂に日本記録(五三・七八㍍)を樹立した。
 昭和二七年高知・松山間国道が一級に昇格し、その後大改修計画が進められ昭和三二年着工、約一〇年の歳月をついやして昭和四二年八月全線完成した。県都松山市ヘ一時間、高知市へは二時間半となり、久万町も都市近郊の町として大きく変革しようとしている。
 今後はこのVルートによって太平洋から瀬戸内海、更に瀬戸内海大橋架橋による山陽道へと連なる縦のオレンジラインは産業・経済・文化など各方面の発展を、ますますうながすであろうと期待されている。しかしながら旧国道沿いに宿場町的役割をおびて発達してきた久万町の商店街、川瀬、父二峰地区の農林業問題等、今後に残された課題は山積みされているようである。