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久万町誌

3 終戦下の郷土

 千人針に真心をこめ、打ち振る日の丸の波に送られ勇躍戦場に向かった肉親は一体どうなったのであろうか、「父よ、夫よ、子供よ、どこにいるのか、生きていてくれ」ただそれだけを願う日々が続いた。しかし、次々に知らされる不吉なデマや、戦死の公報にただおびえ餓死寸前のやつれた姿で復員する兵士に対して慰めの言葉さえ言えなかった。
 家はない、その日の食糧はない、ほんとうに戦争は終わったのだろうか、しばらくは放心状態が続いたのである。なかでも食糧不足は深刻で、栄養失調の子供が下腹をふくらませ、目ばかり光らせ占領軍将兵にむらがった姿はまことにみじめであった。一杯のかゆを三人の親子がわけ合ってすするあわれな姿も都会地には見られたのである。
 焦土と化した松山方面から、食糧の買出しに、リュックを背負い持てるだけの荷物を両手に三坂越えする婦人、食っていくためにはなんでも売り、なんでも提供して食糧を求めたのである。なんでもできる人間しか生きていけない、たけのこ生活、ヤミ屋横行が続いたのである。
 終戦直後米一升(一・八㍑)三〇円か二一年にはヤミ値で一〇〇〇円を越していたとか、上級サラリーマンの月給でヤミ米一升も買えなかったのである。
 大人一日の主食配給量がようやく三合(〇・六㍑)になったのが昭和二三年ごろで、たばこは一日三本の配給であった。都会では配給食糧で生活できず、栄養失調で死亡する人もいたとか、久万地方のような農村はなんとか食糧だけは補えたようである。「嫁にやるなら百姓家へ」というブームが湧いたのもこのごろである。
 交通状態は至って不完全であった。特に自動車は全部木炭燃料で、発車数時間前から炭火をおこし用意するというしろもので、国鉄、伊予鉄バスとも朝早くから乗客の列が続くが、夕方乗車できたらよいほうであった。バスと言ってもトラックに板囲いを作り後方よりはしごで荷台へ乗り込むものであった。中は人いきれと、買出し荷物等の独特の悪臭が漂っていた。
 昭和二〇年の終わりから二一、二年にかけて、満洲から中国大陸から、南方から、広い太平洋の島々から、複雑な思いを秘め故郷の土を踏んだ復員者を迎え、久万町でもようやく活気づいた。空前のベビーブームをつくりだしたのもこのころからである。