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久万町誌

2 銃後の生活

 満洲の一角に端を発した戦闘は拡大の一途をたどり、昭和一二年七月七日遂に戦火は支那大陸(中華人民共和国)に広がり、華々しい戦果をよろこびながらも国家総勤員体制のもと、国民はしだいに耐乏生活に追い込まれていった。「飛行機つくれ芋つくれ」「ガソリンの一滴は血の一滴」昭和一五年にはすべての生活必需品は統制され、切符制により配給されるようになった。
 ナベ・バケツ・つり鐘・橋の欄干・火鉢・火ばしに至るまで、およそ金物と名のつく物は兵器生産のために供出し、平和産業はすべて軍需物資生産工場となり、その労働力は徴用少年工と学徒で占められていた。
 昭和一六年一二月「本、八日未明、日本帝国陸海軍は太平洋上において米英と戦闘状態に入れり」の臨時ニュースを頂点に一億総決起、在郷軍人、大日本国防婦人会、学生生徒に至るまで、軍需工場へ、あるいは食糧増産へと、日本帝国の勝利を信じ「撃ちてし止まん」の気魄も勇ましく連戦連勝していたが遂に広大な戦線と激甚な戦闘により人も物資も飛行機も弾薬も、軍艦も輸送船も燃料も食糧も、底をつくにいたった。
 昭和一八、九年頃の主食の配給量は、大人一日二合三勺(約○・四㍑)でうどんや芋などが配給されると米の量がへる。空地があれば野菜を作り、木材伐採後は強制的な開墾によって芋・トウモロコシ・麦・そば等を作り、桑畑も学校の運動場も掘り起こされて芋畑となった。
 明神地区・父二峰地区の湿田は掘り起こし竹を埋め乾燥田として二毛作をはかったが肥料がない、農具が乏しいという状態で増産にはならなかった。一方、暇をみては屹し草をつくり、牛馬の飼料として戦場に送ったものである。
 これらの労働力は老人・婦女子・勤労動員学生(主として上浮穴高校生)の奉仕によるものであった。日の丸の鉢巻もりりしいモンペ姿の女子学生、戦闘帽にゲートル姿の男子学生は、この第二次世界大戦の勝利を信じ、結果的には無謀な侵略戦争であったとしても、祖国日本に最後まで死をもって尽くそうとした情熱は、清純そのものであった。
 このころから戦闘はいよいよ風雲急をつげ緊迫した状勢となる。ハワイ・アリューシャン・フィリッピン・ソロモン群島・満洲・中国・ビルマと広い戦場への物資輸送は困難をきわめる状態となった。一方、反撃に転じた連合軍は、日本の補給路をことごとく寸断し、完全に制海空権を奪ってしまった。ここにおいて軍部は本土決戦の決意を固めたのである。一五歳から四五歳までの戦える男子はほとんど戦場へ、老人婦女子は内地防衛の任にあたった。
 銃後では、軍需物資の不足にともない、船舶・自動車などの原動機の燃料として、松根油の採取が軍部より要請された。各町村では松根油精製工場をつくる一方、各紙に対して松の根の掘り出し割り当てを行った。掘り出した松の根を同工場に集め、小さく割って蒸溜窯に入れ、加熱させて、発散する油を冷却して精製した。
 昭和二〇年に入り、松の立木より油を採取することになった。各組ごとに責任者を任命し、講習会を開くとともに各紺に対して採取割り当てを行った。
 採取は、生松の荒皮をけずり、のこで切れ目を入れて、にじみ出る油を竹の筒で受けるという方法であった。油が出なくなると更に新しい切れ目を入れて採った。よく油の出る松では、一日に一合(〇・一八㍑)以上も採れた。これらの作業は、小学校の高学年、農林学校の生徒たちの手によって行われた。
 また、火薬の原料をとるため、硝石の精製も始められた。小学校高学年の生徒たちが、旧家の床下の土を集め、土に含まれている硝石を水に溶解させ、その水を平窯で煮詰めて精製した。
 これらに従事する労働力が不足する場合は、徴用と同様に役場から出役令を出してそれに当たらせた。
 このように直接戦争につながる軍需物資の生産に励むとともに、銃後の守りを固めるため、老人から婦女子にいたるまで竹槍訓練を行った。また、各組長の指揮のもとに、焼夷弾などの落下によって起こる火災を防ぐための防火演習も行った。各戸には、直に消火に当たることができるようにバケツ・ぬれむしろなどを準備し、隣組体制を一層強化していった。更に、胸には住所・氏名を書いた名札を縫い付け、防空ずきん・救急袋・メガホンなども常時身辺に用意し非常に対して備えていた。
 ついにアッツ島・サイパン島・硫黄島とつぎつぎに玉砕し、いよいよ本土決戦と一億玉砕の覚悟を決めなければならなかった。
 毎日のように飛来するB29重爆撃機、グラマン艦載戦闘機の監視には、菊が森山頂(標高約一〇〇〇㍍)に昼夜の別なく哨兵が立ち郷土防衛の任に当たった。各町村より数名の哨員が選ばれ一回二名が二昼夜交代で勤務していたのである。
 昭和二〇年七月二六日午後一一時三〇分、遂に県都松山が焦土となる。死者二五一名、行方不明八名の犠牲者を出す。その時の火災は久万町からも見えたという、その夜久万から夜通し歩いて肉親縁者の安否を気づかい、多数の人々が松山へ向かった。その影響もあってか久万町へ疎開者が多数入居し、人口増加の傾向を示したのもこのころである。
 広島、長崎に投下された原子爆弾は日本の敗戦を決定的にし、昭和二〇年八月一五日正午遂に日本民族がかつて味わったことのない無条件降伏という事態に立ちいたった。久万町民も、玉音放送をただぼう然と聞いた。神国日本を信じ、神風を期待した日本国民に与えられたものは、みじめな敗戦でしかなかったのである。