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久万町誌

3 土佐街道建設に着手

 そこでこの指令に基づき関・田辺両県令は係官吏を派遣して、予定道程を実地検査をさせた。一方、大久保諶之亟ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県より徳島県を経て愛媛県多度津、丸亀両港に達する道路開発についての願いを検討した。その結果当初の「予土横断道路」開さく計画を拡大して、多度津・丸亀路線を入れ、徳島県酒井明県令にもはたらきかけることになった。しかし徳島県では新道開発が西端の一部であり、藍産業不況の救済で県財政も苦しい時であり、近年の不況と暴風雨の被害の多い時であるので、とても新道開さくの費用の負担はできぬとこの計画に加わることをしぶった。しかし、愛媛、高知両県令の強い勧誘によりようやくこれに加わった。そこで明治一八年一二月一三日、高知県一等属日北重助・徳島県一等属岩本晴之・愛媛県二等属津田顕孝が各県を代表して一堂に会し、工事分担範囲道路・橋梁巾・道路勾配などを協議し、目論見書・図面・予算書を速かに作製した上、一〇月までに内務卿に提出することを申し合わせた。ところが五月参議院議官森有礼の現地視察があったため、それに供する都合上、予定よりも早く、三県の工事目論見書が作製せられたので、七月二〇日三県令連署による「四国新道開さく、費用補助之議に付稟申」として内務省に提出された。上申書にはその理由として「運輸ノ道ヲ開キ、殖産通商ノ利便ヲ図ルハ、目下地方ノ一大急務タル」ことを強調し「管内ノ人民ハ其ノ間直接ニ論ナリ此挙ヲ賛成」していること、県民の意向がかくある以上は、「県会……仮令多少ノ非論者アルモ……。仮令県会ニ於テ無謂スヲ否スルモ、尚御指揮ヲ得テ断然之ヲ決行スルノ精神二有之候」と不退転の決意をしめしていた。そして工事概算八七万四一四三円九四銭八厘のうち、愛媛高知県負担分の三分の一、非常時にある徳島のほうは三分の二、あわせて三五万四五〇〇余円の国庫補助をあおいでいた。
 九月八日になって山県内務卿から返書が三県にもたらされ、「四国新道の件は認可する。県議会の決議をえたならば、直ちに工事に着手せよ。工事費のうち三分の一にあたる金額を一八年以降五ヵ年間、国で補助しよう」ということになった。愛媛県では再度係官をして実地測量及び工事の目論見を細目にわたり、調整させた結果、工事費は四〇万円を要することが判明した。さきに内務卿に提出した概算金二四万九七四九円九九銭八厘とは大分差違があることになって大変あわてたのであるが、「四国ニ於テハ未曽有ノ大工事ニシテ其経験ノ乏シキガ故費額ノ不足ハ他日之論議二譲ロウ」と諦観し、とりあえず一里(約四㌔㍍)一万円を基準として金二五万六八五四円を工事費として組み、それを国庫の補助金と地方税及び寄付金で支弁することにした。
 寄付の内訳は県下旧藩主及び琴平宮々司、住友吉左衛門・藤田伝四郎などに多額の寄付を依頼し、県官のうち令書記官は月俸三ヵ月分を二五円以上の者は二ヵ月分を二〇~一二円の者は一ヵ月分の寄付をそれぞれ義務づけ、残金高は新道開さくにより利益をうける大小を酌量して各郡に割り当て、ひろく有志の寄付をつのることにした。そこで手始めに長をして学校教員・病院の職員などに諭示したところ、ぞくぞく、義援金の申し出があった。ついで郡ごとに有志寄付金を募集したが、これは先の義援金のようにはいかなかった。それでも、住友の一五○○円の大口寄付を始め七万三〇〇〇円程の基金が集まった。事態を楽観した関県令は「四国新道」開さく工事の承認とその予筧案の審議をもとめるために、明治一八年一一月臨時議会を招集した。
  明治一八年度臨時県会における新道開さくの論議
  「議長小林信近以下県令・議員か議事堂に参集した。午前一一時、開会が報ぜられ関県令以下大書記官・警察部長・各課長が入場した。県令は県会招集の意図を明らかにし、議案のすみやかな承認を求めた。
   各員を招集し、本日臨時県会を開くは、高知・徳島両県に貫通する新道の土木費と一八年度収支予算の追加を要するためなり。
   その旨趣は議案にこれを説明せり、各員其意を諒悉し、審議論好結集を得んことを希望す。
   一四・一五日は休会、一六日より新道開さく審議か開始された。
  開会冒頭赤松範義議員が重要案件のゆえ県令の出席を求めたが、小林信近議長は「本会の議事にしいて県令の出場を請う必要はない」
  とこれを却下し、土木費支出議案審譲の第一次会(議案の質疑と議員の意見発表)を開くことを告げた。
   書記より「自明治一八年度至二二年度地方税土木費支出予算案」を朗読した。つづいて、常置委員の都築温太郎議員が議案に対する委員会の意見として「委貝会は本案に賛成した、ただちに第二次会に移すことを希望する」と報告した。その理由として、「委員の中には、新道開さく工事は多額の費用をかけた割には利益をつぐないえないとか、民間不景気の今日急いで工事に着手することもない。等の意見もあった。しかし多数の委員は早晩道路を開かねばならない。民間困窮のとき巨額の工事は負担にたえがたき有様ではあるが議案をみると、これはけっして民問負担にたえられないというほどのことはない。今日この大事業に着手すれば、竣工した時には物産の興起はもとより、無形の利益をおよぼすことは言をまたない」と論述した。
   ついで議会は議案に対する議員の意見発表があった。これも賛否両論一六・一七の二日にわたり激論された。
   議案廃捨説
   高須峯造(越智)後に初代国会議員となった。有友正親(喜多)このほか村上桂策(新居)河原田新(野間)石原信樹(越智)渡辺隆(北宇和)
   賛成論
   常に大弁舌家の川西甚之助(寒川)は四国一体論をとなえ、その基となる新道路はぜひ急ぐべきだと、又議長小林も綾野宗蔵議員にゆずり発言、山間における埋没物資は多いことから説き新道開さくは本県とすればそれほど驚くほどの工事ではない、工事費も口をきわめ論議するほどの金高でもない。これくらいのことを実行しなければ一国の福祉をすすめることはできぬ。四国開発のためには一時の苦痛はしのばねばならぬと各議員に原案の同意をもとめる。この外加藤彰(温泉)豊田七郎(風早)堀田幸持(香川)の賛成論あり論議の末一一月一八日議員総数六八名の中五○名出席を得て、起立採決の結果採用説二六名、廃捨説二三名過半数にわずか三票でかろうじて第一次会原案が通過した。
   第二次会は同日引続き開会された。同会には常置委員会から修正案が出された。すなわち明治一八年度半ばゆえ支出予算から一万円を減じ同一九年より同二二年までに二、五○○円宛支出とする案である。審議の結果採決修正案が三二名の多数をもって可決された。開さく反対論者の多くは沈黙し、論客は議場を去った。
   一一月一九日第三次会となった。
   平塚義敬(喜多)非開さくの立場から廃案にされたいことを求めた。これに同調して、長井謙吉、石原信樹、高須峯造(いずれも越智)近田綾次郎、有友正親(いずれも喜多)廃案に賛成し平塚案は二三名の少数で常置委員会修正案は二八名の多数で通過した。