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久万町誌

2 久万山民積の由来

 明治四年に旧藩租税課から大庄屋に下げ渡された安永四年以来六〇余年間の民積の結果は、
 米三六九九俵二斗九升一合
 金二三六三円九九銭
にのぼっているが、この内訳は七項目に分かれているので、以下各項目別に分けて述べる。
 ア 安永四年非常水干災予備米(安永の非常囲籾)
 松山藩主八代足静公の安永四年(一七七五)に非常囲籾という救荒政策が立てられた。これは藩の指導により各郡人民から籾を出させ、共同積み立てを行うものである。
 久万山では山畑が多く米のない村の分は田所の村々が引き受けて蓄えることとし、毎年諸作の実るのを確かめ翌年の種籾に心配なしという場合、秋の彼岸後にこれの籾摺を許される習わしで、この夫役は久万山人民の共同負担となっていた。玄米は奉行所の支配に属し、平常はその利殖をはかった。これが明治四年に二三六三俵となっている。
 イ 天保九年藩よりの下され米
 天保七年(一八三六)は一二代藩主定善公の初年であったが、またまた飢饉に見舞われた。全国的に見ると関東の被害が甚だしかったといわれるが、しかし、久万山の受けた被害というものは極めて大きく、中でも西谷村・大味川村の食糧不足はほとんど全戸に及び、人々は木の葉、草の根を食いつくし、はては藁・トウモロコシのからにまで及んだといわれる。人間にしてこのようであったから、牛馬に至っては実に哀れをきわめた。旧記に人の足音を聞くや食物を欲する体にて、破れ壁より痩せたる頭を垂れ、その有様実に愍然、ついに多くは餓死したり」とある。
 幸い藩公の救助の手が延び、人々は餓死には至らなかったが、弱り目にたたり目で翌八年となって春秋にチフスが蔓延し、死亡者の続出をみた。旧記に「御代官津田半助殿、郡医岡本裕甫に命ありて、郡内病人を治療せしめた。八畳の間へ渋紙を敷きつめ薬をつめ薬を山の如く調合なし、西谷をはじめ病者ある村毎に与えられたる程の有様なり。」という。やや大げさな表現の感がないでもないが、昔の伝染病発生の対策が想像される。死を免かれた者も生計の道を失って住家を捨て、他国に離散するもの多く、郡内に空き家、門潰れがおびただしくなり、西谷・大味川が特に多かった。
 これに対し天保九年(一八三八)藩より諸郡に米一〇〇〇俵を下されたが、久万山分は二八石九斗六升八合であった。これが貯米の中に加えられたが明治四年に、二九八俵三斗九升となっている。
 ウ 明門元備金
 久万山の人口は宝永・享保のころ二万人を超えたといわれる。これが享保一七年の飢饉で一万七〇〇〇人に減り、天保の飢饉や伝染病での死亡、離散などのため天保一〇年(一八三九)に一万二九九二人にまで減少している。松山藩はこの実状を見て、米・金を下し久万山の戸数、人口の増加をはかった。これを「明門元備え」と呼び、この利子をもって家を建て農具を整えさせ、門を立てるにつとめたので、次第に人口の増加を見たという。明治四年には、この金が銭札一一一貫一二五匁七分五厘(約五五〇円)となっている。
 エ 赤子養育米
 当時、「間引」と称して胎児を薬物で流産させ、また産室で出生児を敷き殺し、あるいは棄てるなどのことが、生計の苦しさから一般に行われていた。おそらく久万山地方では、このような風習もひときわはなはだしかったことであろう。享保初年以来の人口の激減もこのような原因による出産率の低下が大きな原因であろう。
 弘化二年(一八四五)勝善公へ御用米として久万山から米一四〇俵を献上したが、藩の都合で下げ戻されたので、これを「赤子養育米」として積み立て、出産の場合の救助に資し、堕胎・棄子を防止した。この積み立てが明治四年に米八〇七俵三斗一合となっている。
 オ 風損元備
 嘉永二年(一八四九)七月九日より一一日にかけて大暴風雨があった。
 久万山の被害では、特に畑所の村々がはなはだしく倒壊家屋一〇〇余戸、田畠潰入、床流八町歩、道路、橋梁の破損、諸作は半作又は皆無という惨状を呈した。
 これに対し藩主勝善公は五年間に米五〇〇俵と、久万町紙場所利益金のうち三〇年分、銭札一九貫六九四匁三分五厘を賜わったので、この米・金をもって風損の修理修繕をすることが出来た。
 その上残額米五九八俵二斗九升五合、銭札六貫五○八匁三分を得たので、これを後年風損の予備として積み立てた。これが明治四年には一〇八貫一二匁二分五厘(約五四○円)となっている。
 カ 畑所年貢売米値違い積立
 代官奥平貞幹の発案で、弘化四年(一八四七)から二〇か年間の畑所の年貢と売米の値違いの間銭を積み立て凶年の備えとしたもので銭札二五三貫六六〇匁五厘(約一〇六八円)となっていた。
 キ 郡役人差配米
 起源年月は不明であるが大庄屋の差配に渡されたもので、藩内一般に行われたものである。久万山ではこれを一割利付に貸付、その利子二〇俵を年々大庄屋の給料にあてていた。この米が二〇〇俵となった。
 以上、七種の起源をもつ積立米金は奉行所・代官所で九〇余年間に亘って利殖をはかり、人民救済にあてられてきたが、明治四年の廃藩置県に際し、久万山租税課引払いにつき、大庄屋船田耕作(久谷村生屋)にその全部が引き渡されたのであった。その引継文書は次のとおりである。
  此の度郡貯米大庄屋場へお下げ渡しに付、定規左の通りに候事
 一、貯米の儀は非常の天災に際し庶民その害をこうむり止むを得ざる時、救助のために設け相成来り候義に付、平日軽易に差配致すまじき事。但し平日といえども大窮民見捨て難き者は晴々吟味をとげ救助すべき事。
 一、介抱の節は其の差配をよぶ訳、逐一相うかがい官の許可を待ちて施行致すべき事。
 一、差配候節、定利の外高利を貪ぼるべからざるは勿論、すべてみだりがましき儀これなきよう配慮これあるべき侯事
 明治四年一二月 租税課出張所
 当時引きつぎの米金決算高は左のとおりであった。
       米の部
  米 二、三六三俵    安永度非常予備米
  米 二〇〇俵      郡役人差配米
  米 二六八俵      天保九年諸郡へ下され米
  米 八七俵三斗一合   赤子養育米
  合計 三、六六九俵二斗九升一合、石にして一、六一四石六斗八升
       金の部
  銭札 一一一貫一二五匁七分五厘 明門元備のロ
  銭札 二五三貫六一〇匁五厘   畑所御年貢御売米値違出目の口
  銭札 一〇八貫一二匁二分五厘  風損元備の口
  合計 四七二貫七九八匁五厘、円にして二、三六三円六九銭
 久万山民積米金は安永四年から嘉永二年に至る七五年間に成立したものである。この中で純然たる民間積み立ては第七種の起元の中、第一の非常囲籾で、他はすべて農民愛護のために、藩より下げ渡されたものである。それも第二の天保九年に下げ渡された二八石余以外は、松山藩内でも僻地であり特に貧民の多かった久万山にのみ与えられた恩忠物であった。それからこの積み立ては、享保の飢饉に多くの餓死者を出したことに鑑み、今後再びこのような事態を起こさないようにとの、なかば強制的な施策でもあった。
 唐蜀黍を常食として米を囲うことは実際には大変困難なことであった。中に立つ庄屋等も子々孫々のためにと説諭して根気よく努めたであろうし、奉行所・代官所の指導・運営もまたよろしきを得たものであろう。
 藩の指令は全藩に及んだのであるが、実際には空倉が多かった。しかし久万山は名実共に米にして、多額の積み立てが出来たということは、一に久万山人の純朴さと、よき支配者に恵まれたことによるものである。
 したがって久万山の歴史は圧政の役人を排除するために一揆も起こし逃散となりもしたけれど、藩侯の施政に対しては心から悦服しているのである。