データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

4 御廻領

  ア 藩主の久万山廻領記
 藩主として自領内を巡視し、つぶさに領内のことを見聞することは治政の上においても最も大切なことである。しかし、参勤交代の制度やその他中央の政治にも参与する必要もあり、幕府のいろいろな用掛等の仰せ付けなどもあって巡視は実際には困難であった。松山藩主も半分は江戸詰めの上、その往復には、四○日から二か月も要し、旅行の準備等に要する日数や旅疲れの休養等を加えると、松山城内にいて直接藩政をみる期間は、ほんのわずかであった。
 久万山では、松山藩第一回の廻領は貞享元年(一六八四)に行われたがその前後の藩主の行動は次のとおりである。
  一、天和三年(一六八三)六月一三日御暇
  一、天和三年(一六八三)七月一一日江戸発駕
  一、天和三年(一六八三)七月二六日松山城着
  一、天和三年(一六八三)一一月一六日祖母養仙院死去
  一、貞享元年(一六八四)三月七日「諸大名領地朱印御改且御感状御墨附等家来に至る迄處持の分可差出旨被仰出」
  一、貞享元年(一六八四)二月二一日
                    廻領
              二月二九日
  一、 〃     〃  三月二〇日 豊後国在住の伯父息女病気にて家臣をつかわす
  一、 〃     〃  五月五日  松山発
  一、 〃     〃  六月六日  着府
  一、貞享二年(一六八五)八月廿六日 江戸発駕
  一、 〃     〃  九月一六日 松山着城
 このように前年七月二六日に松山城に帰り、翌年五月五日には早くも松山をたって江戸に向かっていて、一年の在藩期間も参勤交代の休養や出発準備に費しているから、実際におちついて藩政を見る暇はごく少なく、したがって、藩内廻領、特に久万山のような遠隔の地の巡視は至難のことであったと思われる。それでも久松家松山藩政の始まる寛永一二年(一六三五)から慶応四年(一八六八)まで二三三年の間に前後三回の記録がある。貞享元年二月二一日から二九日までの廻領の節、久万山へも来た。
  二月二一日 卯刻(午前六時)為御廻領御出駕
  二月二九日 酉刻前(午後六時)御帰館
とある。その順路、日程等は知るよしもないが、畑野川の庄屋の古文書や松山叢談等によると、二月二六日に、畑野川の庄屋三郎左衛門が古い帳付等を取り出していろいろと古事を申し述べ、藩主はたいへんに興味を持って下問したということが残っている。その功により「向後大巾着御免」等の記録からみると、二六日畑野川村を巡視したことがうかがえる。
 その三八年後の享保七年三月二七日から四月七日にも、松山藩久松家第五代藩主定英によって廻領が行われ、そのうち久万山は二七日、二八日、二九日と二泊三日で巡視している。その日程は次のとおりである。
  享保七寅年(一七二二)三月二七日
     御 昼 休  久谷村庄屋     弥   七 宅 
     御 小 休  東明神 
            西明神  庄 屋  孫   六 宅 
     御   泊  久万町村 庄 屋  次郎三衛門 宅
  同  二八日
     御 小 休            大  宝  寺 
     御 堂 越            畑 野 川 村
     御 小 休  直瀬村 引 立   御  仮  家
     御 昼 休  七鳥村       岩  屋  寺
       竹 谷 通
     御 小 休  直瀬村       御  仮  家
     御 堂 越            畑 野 川 村
     御   泊  菅生村  庄 屋  善 左 衛 門 宅  
  同  二九日
       千 本 越
     御 小 休  畑野川村 庄 屋  喜三右衛門 宅
     御 小 休  同  村 遅 越  御  仮  家
         〆
  余郡ハ写不参二付聞合可認置
 このように、久万山と言っても現在の久万町と美川村七鳥の岩屋寺のみであって、米産地のみを巡視したことがわかる。なお、廻領終了後各村の庄屋に対してはそれぞれ論功が行われ、畑野川の古記録によると、「享保七年壬寅大主公就而御廻領賜褒賞米」とあって、藩主に付き添って廻領をしたので褒賞として米を賜っている。
 続いて安政元年(一八五八)春、廻領が行われたが、その前年一一月、奉行の下検分がなされている。当時の西明神村庄屋の手記を記して参考にすると次のとおりである。
  安政五戊午春 御廻領之節
  西明神村 記録
             庄  官
                 源  兵  衛
  一、去丁巳十一月御奉行所ヨリ左之通被仰出来春
    太守様御廻領仕遊候旨御沙汰有之候
     巳 十一月廿六日  快 晴
  一、左之通会所詰役人ヨリ廻文到来
   一、御廻領御順路之義享保七寅年通相究候ニ付御休泊所為検分明廿六日ヨリ左之通致廻村候間手當向取斗参候様
     合羽籠持人足        壱 人  奥 平 三左衛門
                        上 下 弐  人
                        使 番 壱  人
     荷物持人足         壱 人  渡 部 金右衛門
     御用物入杖箱持人足     壱 人 
     〆
  右去廿六日卯中刻温泉郡より宅々江差越候事
   順路付略ス廿六日久谷村御止宿、廿七日三阪峠晝、東明神ヨリ指出久万町御泊、廿八日市中宿宿凡三拾軒余、菅生山御見分、岩谷寺江御移、同寺御止宿、廿九日畑ノ川江御立越、夫ヨリ遅越通浮穴郡御移之事
   一、別紙順路付之通右数人致宿仕出候事
   一、郡々に而御代官先引郷筒罷出候事
   一、御休泊所有之場所江手代壱人郡役人も罷出候事
   一、道筋村々入口江其村役人罷出居差図を受可申事
   一、人足晝休泊所より継立候事
   〆
   巳 十一月廿七日  雨 天
  一、左之通未下刻村方江御入込ニ付庄屋、組頭、作改、法々之木瀬橋元江出迎ニ罷出る
    和気温泉郡      奥 平 三左衛門 様
    御 奉 行      渡 部 金右衛門 殿
               高 橋 良  蔵 殿
           大 庄 屋
    久谷村迄立越     土 居 五左衛門 殿
     御付添       船 田 内蔵太  殿
           仮 郷 筒
                   仁左衛門
   〆
  一、御小休處源六泊当庄屋源兵衛宅併長家御見分之上取繕不及旨左之通被申聞候
  一、本宅座敷御成間と相成候に付南中障子之処屏風に而相圍候事
     但次之間火燵多々み壱枚敷替候事
     附り
     北押込唐紙大痛ニ付屏風立候事
  一、長家座敷狭宅ニ付居間と致居候処釣棚箪笥等取除御家老中御休足と致候様
     壁等大痛ニ候得共収繕御沙汰無之事
  一、座敷東向下雪隠相見不申様垣致候事
     十一月廿八日  雨
  一、久万町村宿々之御見分之節雨天ニ付郡役人、村庄屋共下駄ニ而御付添申候事
     左之通高橋良蔵殿江取閲願候様掛合
  一、村方御小休所孫六と御座候処郡方大手鑑に左之通相見居候ニ付源六と出居候義には無之哉之旨
  一、左之通会所詰より御沙汰之旨申来候に付差出す
  一、西明神村庄屋宅図間割名付之事
     但長屋勝手向共
  一、本宅家先代売拂弐間半に十間之辰巳向門長屋有之当代源兵衛漸建継にて居住し所御小休之義に付相済
  イ 巡見使
 戦国以前は、太政官が地方の実情を調査するために巡見使なるものをよく派遣していたが、徳川の時世になってからは地方政治を監察する意味で隠密を送りこんでいた。松山藩においても自領内、特に浮穴郡のような僻地にはときどき巡見使を派遣して実態の調査を行った。寛政元年(一七八九)酉四月に巡見が行われた。当時の浮穴郡は約一〇〇村の内四○村余りが大洲領であり、松山藩に属する浮穴郡は荏原・窪野・両村を含めた四〇余村が久万山で、その他の二〇村ほどが里分と称されていた。巡見が行われた時案内役であった荏原村の庄屋の記録か残っているので当時の情勢を知ることができる。
   寛政元年(一七八九)酉四月
     巡見使案内袂帳
  一、池 数  六七  里 分 二六  久万山 〆 九拾参
         御定法、定法外村池共
  一、寺 数  二二  里 分 二九寺 久万山 〆 五拾壱ヶ寺
  一、宮 数  七八社 里 分 
      内  六〇社 小 社 一六社 社号袂付
  一、宮 数 一〇七社 久万山 
      内  七一社 小 社 三六社 社号袂付 
      〆 一八三社
      内 一三一社 小 社 五二社 社号袂付
  一、堂庵数  六九宮 里 分 
        一六七宮 久万山
      〆 二三六宮
  一、鉄砲数  三〇挺 里 分
      内   八挺    同 心 筒
         一三挺    威   筒
          九挺    猟 師 筒
        四二二挺 久万山
         内
         一六挺    同 心 筒
        一九〇挺    威   筒
        二一六挺    猟 師 筒 
         〆 
        四五二挺
  一、御高札  一七枚
         一二枚 切支丹御札 一枚 伴天連御札
          一枚 忠孝御札  一枚 拾馬御札
          一枚 毒薬御札  一枚 強訴禁制御札