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久万町誌

3 年 貢

  ア 地 組
 藩政時代は特別の場合はあったにせよ、ほとんどの耕地は藩主のもので、農民は領地の一部分を預かって耕作していたにすぎない。耕地一筆一筆の出来高見積もりが定まっている関係で、各自の作地より他人の作地がよく見え、中には不平不満を持つ者もあった。また、収税のためにほとんどの者は収穫米の全部を納めてもまだ年貢が不足して、庄屋や代官などよりやかましく取り立て請求をされたりもした。実際には農家に余裕米のあるはずはなかっても他人はよく見えるもので、余裕米があるように思い庄屋以下の村役もこれらの裁きには困りきった模様であった。そのためにときどきは耕作地の変換を行って農家の気持ちをやわらげ納税(年貢米)意欲の高揚をはかったりもした。これも現在行われている交換分合と同じで、いざ交換となると自分の耕地に愛着をおぼえ、一家でも主人が交換を希望しても家内の反対があったり、一戸一戸の上に五人組というのがあって、何事についても共同の責任の制度があったりして計画はしても実施は至難であった。しかし、西明神村では享保九年(一七二四)に行われ、その後、天保一三年(一八四二)春から計画を実行しはじめて翌々年の春作より実質的に換地が実現し、庄屋以下百姓全員の「受書」を取って完了した例もある。
 この天保一三年三月は、久万山始まって以来の大出来事のあった年で、藩主勝善が三月二五日に松山を発駕して岩屋寺へ参詣し、二八日に帰城した。二七日の岩屋寺の参詣は享保の廻領以来実に一三〇年来の出来事であったため、ずいぶんさわがれたものと思われる。また、七月七日には土佐(高知県)の農民三〇〇人余りの者が久万へ逃散して来たので、松山藩、土佐藩、両方から三〇〇人以上もの役人が登山(出張)して来た。同月二七日出張の面々が引き払うまでの二〇日間は庄屋、組頭等の村役はもちろん、農家もともに公用に引き立てられ、農事どころのさわぎではなかった。
 それでも地組は春から計画でもあり、農家、組頭等から矢継ぎ早の請求もあって、庄屋は組頭三名、五人頭一三名の村役を集め、図面によって組換えをした。個人の今までの耕作面積とあまり変わらぬように、また、石高にも大変わりがないようにすることがもちろん必要であった。その上に共同責任である五人組にも石高、耕作面積ともに変動が少なく、しかも、耕作地の位置、すなわち通作にも心を配らねばならなかった。このように天保一三年春から始められた換地作業は、春から秋の初めにかけては前述のような久万山一〇〇年来の事件があり、そうこうしているうちに秋になって、付役は作柄の調査、年貢高の割り付けに、農家は収穫、調整やら年貢の上納等のため一四年の一月いっぱいを要し、一月の末ごろから村役が集まって協議し、再三図面上の換地を行いやっと一一月に完了した。農家全員の納得了解が得られたので、一件書類を作成し、大庄屋から元締、代官を経て藩主に提出し、翌一五年よりこの換地による耕作が認められた。
 換地か認められたので、新しい水帳を作成することになった。この作成にも相当の月日を要したが、天保一五年三月に田方、畑方ともに完了した。この帳簿とともに図面も作成し、明治の新しい制度ができるまで、西明神村の基本台帳となった。災害等による多少の訂正は見られるが、現在も残っていて貴重な資料となっている。
  イ 田畑水帳
 地組によって確定した田畑を記録する帳簿を水帳という。これはその村の基本台帳となり、年貢はもちろん村の経費から久万山経費、人夫割り、神社割り、寺割り等あらゆる割り付けの基本となった。
 嘉永七年(一八五四)、米艦が神奈川沖に来泊した時、松山藩は武州不入斗村から大井村辺の防禦を命ぜられ、総勢六〇〇人が出動した。この時にも人夫を一〇〇石に付きひとりの割で招集した。西明神村は石高三〇〇石で三人というように久万山では七二名が割り当てられている。このように何事につけても水帳によってなされたことがうかがえる。
 さて、この水帳は各村でそれぞれ違っていると思われるが、現在残っている西明神村のものは、タテ三五㌢㍍、横一三一㌢㍍、厚さ七㌢㍍の丈夫な和紙で筆書きをもってできている。田方、畑方の二部からなり「田方水帳」は一〇九〇筆からなり、一筆ごとに等級、面積、石高、地名、耕作者名が記され「畑方水帳」は六一一筆からなり、米に換算した石高が記人されている。その他の事項については同じである。その一部分を記してみると、
   「浮穴郡久万山西明神村田方水帳」
   五反地下 又江門作    東井手四尺段
  十三代 一、三畝      高 三斗九升    弐百八拾六番
   同所上同人作 四ツ    西東井手四尺段
  十一代 一、五畝弐拾八歩  高 六斗五升三合  弐百八拾七番
   乙井手西 作市作      北三尺井手四尺段
  十一代 一、壱畝三歩    高 一斗二升壱合  弐百八拾八番
   同所 同人作        北三尺井手、四尺段
  六代半 一、壱畝五歩    高 七升六合    弐百八拾九番
   下宮田 茂江門作      東井手、段の上
  十二代半 一、弐畝三歩   高 弐斗六升三合  弐百九拾番
   窪田、茂江門作       西三尺井手、三尺段
  十一代半 一、壱反拾壱歩  高 壱石壱斗九升弐合 弐百九拾壱番
  畑 方 水 帳
   同所 孫右衛門作
  弐斗八升代 一、三畝拾弐歩 高 九升五合    五百七十番
   かじや段上 伊助作
  七升代 一、弐畝拾歩    高 壱升六合    五百七十一番
   同所道之下 伊助作
  八升代 一、九歩      高 二合      五百七十二番
   同所上
  弐斗三升代 一、壱畝壱歩  高 弐升四合    五百七十三番
 「十三代」とは一反に付一石三斗という意味であり、したがって、三畝だから三斗九升の勘定となり、畑方は米に換算しているので安くなっている。末尾には久万山の改庄屋、庄屋の認印や、部役人、代官等のそれぞれの認書があり、最後に西明神(地元)の庄屋、組頭等の村役の覚認書が書かれている。
 この水帳を見ると、又衛門、作市、茂衛門の三人が耕作しているが、仮にこの六筆を同一人が作っているものとすれば、合計二反三畝二〇歩で、石高二石六斗九升五合となる。一般に農家の身分を表わす方法として、「石鳥二石六斗九升五合の百姓」と呼ばれ、この石高の多いものが農家同士でも身分が高く、村の集まりでも上座に着く定めであった。そこで、次に石高と米の作高の関係がどのようになっていたのかを調べてみると、農林省統計事務所の発表による明治初年の米作収量は次のとおりである。
 これは、全国平均であって、明治一〇年から一五年の五年間平均の出来高が反当一石一斗七升五合となっているから、これをそのまま西明神村の水帳に当てはめると「一一代半」余りの田になる。この表の増収率から逆算しても、明治より四○年前、つまり、天保時代の反当収量は自然推定され、石高とは収穫目標高であったことが了解できる。また、この水帳が松山一五万石の石高帳に合致していることからみて、石高は領主の知行高、農家から言うと、草高であって、この石高全額を領主が取ってしまうと、領民のとる部分がなくなってしまうことになる。「六公四民」とか「五公五民」とかいう言葉が残っているが、それは、その年の税率をいったものである。また伊予には「七ッ免」という有名な年貢高の言葉が残っているが、実際には窪野村のように石高より多い税額がきめられている例もあり、その言葉のとおりではなかったことが窺える。
 年々の税率を定める方法には二つの方法があった。一つは検見(毛見)といって、その作柄を検見した上で税率を定めてその村へ通達する方法で、もう一つは、村方の庄屋・組頭・作改等の村役によって作見を行って出来高の見積もりを立て、農家と相談の上、前年同様に引き受けを決定し、代官の承認を得て納める「常免」の方法であった。
 村方で常免を希望しても藩の都合等で「検見」を行い、多額の徴集をした例もある。また、村では災害などによる凶作のため、「検見」を希望して藩の役人が派遣され検見が行われて、実際には農家の思惑とか凶作による減収よりも、はるかに多い税率か決定された。その上に役人の派遣による経費が減税額より多いものになる場合があり、事実上は重税になる結果が多く、そのため久万山では常免が案外に多く採用されていた。前記「西明神田方水帳」の石高と税率とを比較してみると、作付面積二反三畝二〇歩で、石高二石六斗九升五合になり、後期常免率で試算すると、八割九分の定免で二石二斗九升七合五勺となる。年貢には一俵に四斗四升入れるとされていたために、一割を加算すると、二斗三升足らずになる。したがって二石五斗一升九合八勺余りが藩の倉庫に納入されることになる。その上に久万山としての経費や村の経費が最低の見積もりで、石当たり五升は必要であるので、この分が一斗三升四合五勺余りとなり、藩の年貢、久万山分、西明神村分を全部加えると、年貢高は二石六斗五升余りとなって、農家の取り高は差引き四升二合ばかりとなる。その上に屋敷、畑、藪、等の年貢を納めると、収穫高より年貢が多くなってしまうのである。そこで収穫物(米)を全部と、大豆は特に米に換えて納めることができたので、この大豆を納めてやっと完納できた状態であった。
 無理をしていても年貢を納めている者は石持ち農家で、村の「本門百姓」といって農家では身分のよい者とされ、庄屋の家における村総会等にも出席して意見を述べることもできた。しかし、農家であっても二男、三男で親の田を作っている者や、移住者で他人の名儀のものを小作していたりするものは、「無縁家族」とか、「水呑み百姓」と言って、村では一人前に認めてもらえなかった。昭和二十年代まで、水呑み百姓ということばは生きていた。

明治中期の米収穫高

明治中期の米収穫高


定免平均租率表

定免平均租率表


寛保(一七四三)年代久万山手鏡による西明神村税高

寛保(一七四三)年代久万山手鏡による西明神村税高