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久万町誌

2 村役人

 戸口調査の翌年には庄屋の制度ができ、これまでの名主制度が廃止されて、各村ごとにその長となるものを庄屋といい、村の政治はこの庄屋によってなされることとなった。「久万山手鏡」によると、検地や出屋の任命も大体に同じ時期に行われたことがわかる。
 庄屋として、その土地の住民の中から家柄や政治手腕等に優れた者を選任した。したがってなんらかの由緒を持っている者がなった例が多く、もちろん相当の財力すなわち高持ちでなければならなかった。後では功績によって苗字や帯刀を許された。
 入野村庄屋は、戦国末期大野山城守直昌の番城の一つで越木甫気城主、山之内肥後守光宜の子孫、東明神の庄屋は、船山城主船草出羽守仲重の子孫、西明神の庄屋は、天神森城主梅木但馬守の後裔であるなど、各村ともそれぞれ当然なるべき人々が庄屋に任命されている。
 父二峰村にある古文書によると、文政元年(一八一八)七月一七日に「村方庄屋『宮田祐蔵』殿へ御城下より御手配成り太刀御免と相成り、併せて露峰村『向居三郎』殿へも太刀御免、父ノ川村庄屋へは苗字御免『大野嘉平次』と相改申候」とあり、二名、露峰の庄屋はその時以前に苗字が御免になっており、続いて帯刀が御免となり、父野川庄屋は新しく苗字が許されたことが窺える。
 寛文一〇年(一七九九)に「梅木源兵衛、大庄屋役御仰付、御扶持として三人扶持被下」となっている。
 庄屋の職務を子、孫と世襲するのが慣例で、嫡子のない庄屋の家では、早くから養子を迎えて嫡子として藩へ届け出ておき、成人するに及んでその職を継がせている。
 西明神村の庄屋で久万山の小天狗といわれた梅木源兵衛は、直瀬村の名門小倉丹後守の後裔庄屋の家より養子として迎えられて、後に西明神村の最後の庄屋となったし、畑野川村庄屋土居勘右衛門も大川の庄屋、土居家より来た人である。
 庄屋の最も大切な任務は年貢米の取り立てで、代官と農民との間に立ってずいぶん苦労も多かったが、そのかわり狭いながらも独裁者であったから住民を呼び捨てにすることぐらいは茶飯事であった。時には住民の反感を買って騒動を起こしたりもした。また、反面には農民の代表となって水利権あらそいにまきこまれたり、直訴嘆願の主謀者となって農民を塗炭の苦しみより救った例など数多く聞かされている。
 庄屋の下に組頭、作見、筆方、小走等の村役がいて、その給料は藩庁よりそれぞれ給米として支給されていた.久万山では、村中で一番石高の多かった東明神の例を見ると次のようになっている。
    東明神村
       庄 屋     新右衛門
  高 五百拾五石八斗三升
  一、八拾壱町弐反弐畝    田   畑
        内
   高 四百三拾三石
     瓦拾五町八畝     田   方
   高 八拾弐石八斗三升
     弐拾六町壱反四畝   畑   方
  一.拾五俵         庄屋給米
  一.八俵          小走二人給米
  一、五俵          使番給米
  一、弐俵八升九合      三坂文書給米但シ三坂より窪野村迄
  一、三斗          斗差三人給米
 村によってその給米も違っていて、小さい村の例を上げると次のとおりである。
    野尻村
       庄 屋      次郎左衛門
   高 百六拾七石
  一.弐拾九町壱反      田   畑
       内
   高 百拾七石五斗
    拾三町五反五畝     田   方
   高 四拾九石五斗
    拾五町五反五畝     畑   方
  一、五俵          庄屋給米
  一、三俵          小走給米
  一、一斗五升        斗差給米
  一、弐俵一斗        御茶屋使番給米
 このように、その村によって給米の多少もあり、また「倉番給米」などのある村もあって、それぞれの村の状態が異なっていたのを見ることができる。
 しかしながら、村の役人は給米のほかに自家にあっては村中の資産家であり、当時の言葉でいうと相当の高持ちであった。
 徳川の末期における庄屋は、農民の一員であると同時に村の長であった。身分法によってみてもはっきりと農民であったことがわかるが、庄屋制度ができた当初は、まだまだ武土としての性格をそなえていた。それは慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いなどに出征した記録もあり、また幕末にも石高に応じた召集、たとえば三〇〇石に対し一〇人とか三人とかを藩庁の命によって召集し、久万山でひとりの庄屋がその頭となって出征したことでもわかる。
 さきにのべたように村の役人の給米は藩庁より受けたが、その反面費用も相当必要とした。村内の神社・仏閣・橘梁の改復、修から人家・道・水路などの修理等にいたるまで指図しなければならず、かなりの経費もかかったことが窺える。これらの費用はもちろん村内より徴集したのであるが、この割り出しはあくまでも藩へ納める石高に応じてなし、一石について三升とか五升とか、その年の入用分だけを割り当てて賦課したものである。年末に庄家の家に集まり、村役人より維費の明細を読みきかされて異議なく決定するという状態であった。この会合に出席できるものは、納税をする農家、すなわち、高持ち百姓に限られていて、納税の石数の多いものからその位も上であり、「拾石の百姓儀衛門」「七石三斗の百姓喜八」とか言った呼び方をしていた。多少でも納税し得る者を「本門百姓」と言い、その他の者を「無縁家族」とか「水呑み百姓」とか言っていた。これらの人々は全然発言権もなく、明治、大正はもちろんのこと、昭和の今日にいたっても、貧乏な農家を「水呑み百姓」と言ってその当時の言葉がそのまま残っている。
 村の政治のほかに数か村の庄屋が集まってひとりの大庄屋をおいたが、久万では東明神村・西明神村・入野村・久万町村・菅生村・野尻村・上、下畑野川村でひとり、直瀬村は北番の村々といわれて、杣野村や大味川村など川下の村々とともに一つの集団でひとりの大庄屋、また、父二峰では二名・父野川・露峰・馬酔木谷の四村にひとりいたので、都合現久万町には三人の大庄屋がいたことになる。したがって大庄屋役所が三軒あり、各村の庄屋は役所に出仕してその内から経験や手腕等によって「改庄屋」ひとりをとり、他の庄屋は「大割方」、「筆用方」、「月番」等それぞれ担当を定めて義務を受け持ち、代官と村との中間的な役割を果たしていた。
 藩よりの通達やおふれは郡奉行所より代官を経て伝えられた。久万では久万山の代官代理「元締」に伝えられ「元締」より大庄屋へ、更に庄屋へ伝達され、庄屋は村役人を通じ「高札」や口頭によって言い聞かせた。
 松山藩(久松藩)の久万山の役人付を見ると、代官一、元締一、手代四、大庄屋二、改庄屋一ー二となっている。もちろん、父二峰・馬酔木谷は含まれていない。代官は久万に常任したものではなく、元締が常住しその下役に四人の手代がいたもので、大庄屋の政務をとる場所とは違った場所にあった模様である。
 支配者の農民観はまことに苛酷なもので、「百姓は死なぬように、生きぬように合点いたし収納申しつくるよう」とか「百姓とごまの油はしぼればしぼるほど出る」とか言った言葉が残っているほどであった。さらに本多佐渡守正信が、徳川二代将軍秀忠の問いに答えて「百姓は天下の根本なり、これを治むるに法あり、先づ一人一人の田地の境目をよく立て、さて一年の入用作物をつもらせ、その余りを年貢に収むべし、百姓の財は余らぬように不足なきように治むること道なり」といっている。

松山藩の機構 久万山政治機構

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