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久万町誌

二 郷村の起こり

 農村も室町時代となると畿内では、農民の力がのびて来て、寄合いなどが行われ用水、入会地の菅理、犯罪の防止などについて取りきめをしたり百姓請といって、村が領主への年貢を責任をもって請合い納めることなど、自治の生活ができるまでに成長している。これは一村にとどまらず郷村制と呼ばれるように荘園のわくをはずした自然的な村々の連合にまで拡大されるのであるが、それは先進地帯の例であって、伊予の村々はどうであったか、平野部と山間部の相異もあろうし、史料にも乏しく研究が進んでない。
 浮穴郡の名が古文書にはじめて見えるのは、天平一九年(七四七)の大和国法隆寺の資材帳であり、九三〇年代にできた和名抄によると浮穴郡の郡名を「うきあな」と読ませており、次の四郷があげられている。
  井門郷  拝志郷  荏原郷  出部郷
 この四郷が今日のいずこにあたるかを考えてみると井門郷は松山市の森松、石井地区、拝志郷は、重信町のもとの拝志村地区、荏原郷は、久谷地区、出部郷は、砥部地区と考えられる。
 そうみてくると浮穴郡四郷は、すべて下浮穴郡に属するもので、今日の上浮穴郡にあたる郷名はない。
 このことから、今から一〇〇〇年以前には、上浮穴郡の地は、まだ開拓されず、ほとんど人の住まぬ所であったとみるべきではなかろうか。
 天文一一年(一五四四)になると、土州一条氏が兵を率い、たびたび、久万山に打ち入るところとなり、村の頭が河野の屋形に援兵を乞うとあり、このころになると、定住するものがあって、村落の構成があったものとおもわれる。
 慶長六年(一六〇一)の史料(南部文書)によると、二名、父ノ川、露峰、下野尻の各村の名がでており、これが今日の村の名のしるされた最初である。
 幕藩体制の初期の村々を知るものとして、四代将軍家綱の寛文四年(一六六四)の『寛文印知集』がある。本書は、将軍の代替りに際して諸大名、社寺に与えた朱印状、知行目録の控を抄録したもので、松山領としては、東明神村・入野村・西明神村・町村・野尻村・菅生村・畑川村・北番村の村々があり、大洲領としては、父野川村・露峰村・下野尻村・二名村の村々が記されている。
 元禄一三年(一七〇〇)に作られた伊予国村高帳には、東明神村・西明神村・入野村・久万町村・露峰村・上野尻村・下野尻村・上畑野川村・下畑野川村・父野川村・二名村・直瀬村・菅生村など、おおむね、現在の大字部落名が記されるまでに、村落の発達をみたといえよう。